2016
08.23

イタイ!を忘れるな①/④

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IMG_9275_201509101641278f8.jpg [関山慧玄禅師]
 京都市右京区に、臨済宗の大本山の一つである妙心寺があります。臨済宗には、京都に建仁寺、東福寺、南禅寺、天竜寺、大徳寺、また、鎌倉には建長寺、円覚寺など全国に14大本山がありますが、その中でも最多の末寺を持つにが妙心寺です。開基は花園上皇はなぞのじょうこう)[1297~1348]、開山は関山慧玄(かんざんえげん)禅師[1277~1360]で、1338年に創建されました。
 妙心寺の開創には、興味深い話が伝えられています。花園上皇は、禅に深く帰依し、大徳寺の住職だった大燈国師[宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師]を師として参禅聞法(さんぜんもんぽう)しましたが、国師が病床に伏したため、後継者の推薦を要請します。このとき国師から推薦を受けたのが関山慧玄禅師(以下、禅師とします)でした。ところが、そのとき禅師は、悟後(ごご)の修行[悟りを開いてからの修行]に励んでいたため行方が分かりません。
 花園上皇は、使者に命じて人相書きを持たせ、全国津々浦々を捜索させます。苦労の末、使者は、美濃の国、伊深の里で隠遁(いんとん)生活をしていた禅師を捜し当て、上皇からの上洛[京都に上ること]の命を伝えます。禅師は、はじめこれを固辞しますが、使者からの七度にわたる熱い説得に折れる形で、京都に上ることを決心します。
 そのころの禅師は村人たちと共にありました。牛を追い鋤で耕したり、樵となって山の木を切ったり、ときには牛を曳いて隣町まで買い物づかいをすることもあったと言います。そして、夜には草庵に帰り、坐禅をするという地道な修行を8年間も送っていました。
 そんな経緯から、このことを知った村人たちの驚きはたいへんはものだったと言います。何しろ、それまで下男下郎のようにしてこき使ってきた乞食坊主に朝廷からの使者がやってきたのですから。
 禅師が京都に上る日、たくさんの村人たちが、それまでの無礼を詫びる一方、別れを惜しんで村はずれまで見送ります。その中に、日頃から格別親しく出入りしていた老夫婦の姿がありました。
 以下は、そのときのやり取りとして伝えられている逸話です。
 老夫婦は、そんなに偉い和尚とは知らず、今まで一度も説法を聞くことがなかったのを悔やみ、次のように願い出ます。
「和尚様、どうかお別れに、一言、説法をお聞かせくだされ」
すると禅師は、
「よしよし、爺さんちょっとここへ、婆さんもちょっとここへ」
と二人を向かいあわせに座らせると、二人の髷をとって、額と額をゴツンと打ちつけてしまいます。
「イタイ!」
二人が思わず額を押さえると、間髪を入れず禅師は言います。
「そこじゃ!そこを忘れるなよ」
 老夫婦にしてみれば、禅師との最後の別れに臨み、どのようなありがたい説法を聴けるかと期待に胸膨らむ思いであったに違いありません。ところが、こともあろうに、互いの額を打ちつけられてしまったのです。
(以下、②/④につづく)

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