2016
07.30

庭石に根づいた松 ④/④

Category: 未分類

Zlr3.jpg

 正眼寺の庭石に根付いた松は、この「現成受容」を見事に体現しているのではないでしょうか。
 「浄土門」の思想によれば、「他力」というのは阿弥陀仏の本願のことですが、これを別な言葉で表現するなら、自然界に漲る大いなる力と言ってもよいでしょう。具体的には、松の周囲に働いている様々な自然の力のことです。一方、「自力」というのは、松が本来持っているたくましい生命力のことと言ってよいと思います。
 このように考えると、「他力と自力」は決して別なものではなく、二つ力の合力によって今の松の姿があることになります。それはこれまでもそうであったはずですし、これからもそうであるはずです。また、このように考えるなら、この世に存在するあらゆる事物、事象も「他力と自力」の合力によってもたらされていると言えます。
 したがって、松の在り方を「現成受容」という思想に基づいて捉え直して見るなら、次のように言うことができるのではないでしょうか。
 “自力により他力に気づき、他力を受け入れることで、新たな自力が生まれる”
 「現成受容」というのは、「他力と自力」という双方の力を認めた上で、それを超越する見方と言えます。
    したがって、このような視点から物事を眺めてみるなら、「他力と自力」という対比はその意味を失うのではないでしょうか。老師は、これを「他力と自力」は表裏の関係にあると述べられたのだと思います。まさに卓見だと感じました。
 ただ、こんなふうに言うと、庭石に根付いた松と「悟り」を開くこととの間に一体どんな関係にあるのか、いぶかしく思われる読者もあるかも知れません。この点に関しては、次のように考えてはどうでしょうか。
 私たち自身も「他力」だけで生きているわけではありません。また「自力」だけで生きているわけでもありません。繰り返しになりますが、「他力と自力」という、二つの力を得て生きています。「他力と自力」の合力の中にこそ、“生きることの真実”があります。
 過去は変えられない…、未来のことは分からない…、だから、今を、この場所で、無心に生きていく…、そこに素晴らしい力が発現される…。これが「悟り」の様相ではないかと思うのです。そのことに目覚め、体現することを「悟り」とするなら、松はすでに「悟り」の世界を生きていると言えるのだと思います。
 結局、「悟り」というのは遠い世界のことではなく、ごく身近なところにあるということ、これが正眼寺の松が発している「無情説法(むじょうせっぽう」ということなのではないでしょうか。  (〆)
48-8 
※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「昼間に星を見る」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

                                                         


 


スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/505-6098d837
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top