2016
07.22

庭石に根づいた松 ②/④

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20121101171116.jpg[正眼寺庭石の幼松]

 これだけを見る限り、「他力の思想」と「自力の思想」は全く対極にあるようにも思えます。いずれも最終目標は「悟り」を開くことにあるわけですが、そこに至る方法に違いがあります。
 乱暴な区分をするなら、「悟り」を開くために、他者の力を頼りにするか、それとも自分の力を頼りにするかということです。
 ただ、「浄土門」も、「聖道門」も、それぞれの立場から真摯に「悟り」のプロセスを説いているのであり、どちらが正しいなどと軽々には判定できるものではありません。結局は、受け止める側の判断に委ねられるのだと思いますが、たいへん気になる問題ではあります。
 そこで、老師のお話に戻ります。老師は、この問題に対して、「他力と自力は裏表の関係にある」との前置きをされた上で、たいへん興味深い実話を示されました。それが、正眼寺の本堂前にある庭石の上に根づいた松の幼木の話でした。
 余談ですが、このお話はセミナーの講義の中でも伺ったことがありました。そのときは、確か“珪化木けいかぼくの庭石と紹介されたように記憶しています。“珪化木”と言えば、土砂等に埋もれた樹木が、膨大な年月をかけ化石化したもので、たいへん硬いとされる岩石の一つです。その上に、松の幼木が育っているというのだから、たいへん不思議なことです。
  老師のお話の正確を期すために、ご自身の著書「無心の一歩をあゆむ」から、文章を抜粋して紹介したいと思います。
 さて、この頃、本堂前の庭に、少し奇妙な光景が見える。小岩のような庭石から、松の苗が育っているのだ。
 今、四五十センチに伸びて緑鮮やかだ。
 まさに石の裂け目、隙間を探し出しては、根を奥深く食い込ませ、僅かな水分と養分とで生長している。(中略)
 だが、どうしてこうなったのか。
 この庭には、石畳の参道を境にして、反対側に大きな大きな松の木が二本ある。
想うに、そこから松笠が風に吹かれて飛んで、偶然この庭石の上に落ちた。しかも、毎日、掃除をする雲水に見咎められずに打ち過ぎ、いつか冬の陽か春の陽気に暖められ、乾燥した松笠が蕾を開いて、松の実、種子を落としたのであろう。そのうちの一つ二つが、この庭石の裂け目に入った。
 とはいえ、もし雨が降らず日照りが続けば、芽が出ることはない。また、雪が降り続き氷漬けのようになれば、芽はおろか、生命も絶えてしまうのではないか。
 幸い冬を越えて、春の雨に目覚めた種子が、少しずつ芽を出し、根を裂け目に入れた。(中略)
 大袈裟ではあるが、人知を超えた天の仕組みがそこにはある。そして、この過酷な条件でも苗は生長し、一本の木になろうとしている。
 小衲(老師自身のこと)は、雲水たちにこの松に水や肥料をやること、また手に触れることもならないと言っている。驚異的な自然の仕組み、働きから生まれたのだから、一切自然に任せるべきで、喩え日照りが続こうが、豪雪になろうが、それに耐えうる力はこの松に備わっている。
 種子には無限の能力があって、この松はそれを開花させたに過ぎない。それゆえに、逆に甘やかされた途端、その能力を失って枯死するのではないか。(中略)だが我々も種子である。仏の種子である
。(以下、③/④につづく)

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