2016
07.10

時間が経てば腹が減る③④

Category: 未分類

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 ところで、先に紹介した『臨済録』の一節の続きを読み進んでいくと次のような一文が出てきます。


(なんじ)、(すべか)らく随所に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆な真(しん)なり


 『臨済録』の中で最も有名な言葉だとされ、「随所主作立処皆真」、あるいは「随所主作」などの熟語で、掛け軸などに揮毫され、よく目にする禅語ではあります。しかし、この言葉もなかなか難解です。次のような意味があるようです。
 いつどこにいて、どんな立場にあっても、何ものにもとらわれず、常に主体性を持って生きていくなら、外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことはなく、そこに真実がある…。
 解釈の仕方によっては、自我の発揚を鼓舞し、自己主張を奨励するかのような受け止め方もできるので、誤解される向きもあるかも知れませんが、臨済禅師の真意はまったく別のところにあるようです。
 無文老師は、次のように解説しています。


 自分が一番大事だ。戦後の教育ではこういうことが盛んに言われておるのであるが、どうかすると、誰の言うことも聞かん。俺一人が正しいのだ、と間違って受け取られるが、この「主」というのは、俺ではない。自我ではない。
 「主」ということは威張ることではない。自我があってはいかん。自我のない透明な心、それは自分と他人の区別のない心である。(そのような心に気づき)どこへ行ってもわしの世界だと思えば、(すべてのものを)大事にせずにはおれん。可愛がらずにはおれん。…
 この世界はみんな自分の家だ。その中に暮らしておる人はみんな自分の子どもだ。これが随所に主と作ることだ。そういう愛情と責任がなければならん。


 無文老師によれば、臨済禅師の説く「主」というのは、個人が求める自己都合を優先させた主体性とは別ものです。いわゆる自我(エゴ)を指すものではなく、自我(エゴ)を排除した先に生まれてくる主体性のことです。その意味では、いわば「地球人」としての主体性とでも言うべきものかも知れません。
 したがって、そこに自我が介入する余地はありません。自己と他者の垣根もありません。だからこそ、その先に他者に対する無条件な「愛情と責任」が醸成されてくるということなのだと思います。
 「随所主作立処皆真」…、臨済禅師は、相対世界を超えたところにある絶対的な主体性(心)こそ真実であり、その働きに叶う生き方の中に人としてのあるべき本来の姿があると説いているわけです。(以下、④/④につづく)
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