2016
06.24

言葉が通じない ④/④

Category: 未分類

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 しかし、よく考えてみれば、情報というのは、誰かの目で見、誰かの耳で聞き、誰かの頭で考え、誰かの心で感じたことでしかありません。とりわけマスコミを通して報道される情報は、編集者など第三者のフィルターを通すことでしか存在し得ません。私たちは多くの場合、“生”の情報に接していないのです。そこから発せられる言葉や文字が、一向に骨身に沁みないのは、このことに原因があるのではないかと思うのです。
 これに対して、老師は、「きれい」や「えらかったな」を「百パーセント通じ合っている言葉」と言っています。それはなぜなのでしょうか。
 一つには、体験に基づく、まさに“生”の情報(“生”の言葉)のやり取りだからではないでしょうか。体験することでしか得られない、血の通った情報(言葉)を通してのコミュニケーションであるということです。
 また、もう一つには次のような側面もあるのでしょうか。「きれい」も「えらかったな」も、その場を繕うような便宜的な言葉ではありません。まったく嘘も偽りもない、全身からほとばしり出た言葉です。言い換えるなら、それは人間なら誰もが持つ、原初的な感覚(心)に根ざした言葉であるということです。万人が例外なく具える感覚(心)に根ざし、そこから導かれてくる言葉だからこそ、互いの心に響き合うのだと思うのです。
 科学技術の発達によって獲得した“幸せ”と、“罰”としてのコミュニケーションの崩壊という現実に向き合うとき、現代を生きる私たちに求められることはどのようなことなのでしょうか。あいにく、今の私はそれに対する明確な回答を持ち合わせていません。また、それを導き出すような力もありません。
  ただ一つ言えることがあるとするなら、今こそ私たちは一度、立ち止まり“幸せ”の意味を改めて見つめ直すべき時期にさしかかっているということではないでしょうか。いたずらに生活を高度化・複雑化することばかりが“幸せ”ではないという反省や自戒の念が芽生えてきたとき、見えてくるものがあるのかも知れません。
 いずれにしても、これまでも繰り返し述べてきたように、私たちは「知足」にこそ本当の「満足」があり、「シンプル」にすること、つまりは「捨てる」ことの中にこそ「進歩」があるという発想の大転換を迫られているのだと思います。そして、それが“人間は一人では生きらない”という揺るぎない事実を再確認することに通じるのではないかと思うのです。
  たいへん難しい課題ではあります。しかし、私には、この方向性以外に“罰”から逃れる道はないと思うのですが…。
 読者はどのように考えられるでしょうか。(〆)

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dot 2016.09.22 19:01 | 編集
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