2016
06.20

言葉が通じない ③/④

Category: 未分類
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 私たちの生きる社会は便利で快適にはなりました。そして、このような状況を指して、私たちは“幸せ”と呼んでいるのだと思います。
 ところが、その反面、人間関係が希薄になり、コミュニケーションのチャンスは、間違いなく減っています。防犯カメラなどの普及に伴う、互いへの不信感と警戒心の増大も、それを象徴するものの一つと言っていいでしょう。これが、老師が言う“幸せ”と“罰”とは、表裏一体のものであるということなのだろうと思います。
 また、老師は別のところで、「人間は『バベルの塔』を永遠に未完成に終わらせるような生活を送りはじめている」と指摘しています。人間社会に、これまで以上のコミュニケーションの深化は望めないというのです。まことに、ショッキングな指摘ではあります。
 では、私たちは、このような現状に対して、ただ手をこまねくだけなのでしょうか?
 禅には「不立文字(ふりゅうもんじという言葉があります。言葉や文字にとらわれない…、言葉や文字をあてにしない…、という禅の立場を述べたものです。しかし、これは、言葉や文字など不要だから、一切頼りにするなということではないと思います。言葉や文字をすべて否定したら、日常生活は、恐ろしく不便になるだろうと思います。いえ、正常な状態では機能しなくなってしまうことでしょう。
 私見ではありますが、「不立文字」が伝えようとしている真意は、文字や言葉を超えたところにあるコミュニケーションの大切さを言っているのではないかと思うのです。
 老師は、本の中で次のような、興味深い例を挙げています。
 家族全員、握り飯でも持って同じ山に、お父さん、お母さんも子供も登ったとしましょう。一歩一歩と足が重くなっていく、全身から絞り出すように汗が出る、息は喘いでくる、みんな一緒に同じ体験をして、山へ登っていく。そして、頂上からずーっと景色を眺めて、「わー、きれいやな」「おい、きれいだな」「あなた、きれいですね」と、この「きれい」という言葉は、百パーセント通じ合っている「きれい」です。そして、帰ってきてからの思い出話に「山登りのときは、お父ちゃんえらかったな」「そやったな、汗ようけ出たなあー」この言葉もまた百パーセント通じ合っている言葉です。
 「きれい」も「えらかったな」も言葉ではあります。しかし、老師は、この言葉は、「百パーセント通じ合っている」と言います。
  私たちは、今、めざましい発達を続ける科学技術と、それに付随する多様で膨大な情報(文字や言葉を含む)に囲まれ、その中で生きています。いえ、それ以外の生き方は考えられないというのが実態ではあります。(以下、④/④へつづく)

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