2016
06.12

言葉が通じない ①/④

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1_20150627101507bc9.jpg [盛永宗興老師]

 京都・花園大学の学長を務めた臨済宗の僧侶に盛永宗興(もりながそうこう)老師があります(1925~1995)。老師は、大徳寺での15年間の修行後、石庭で有名な龍安寺の山内にある大珠院の住職をしながら、さまざまなところで講演をされたのですが、その講演記録をまとめた書籍に「禅・空っぽのままに“生”きる」があります。禅の本質が、平易な言葉で分かりやすく語られており、私が頭から離れない本の一つです。今回は、その中にあった話をもとに、思うところを述べてみたいと思います。
 次は、その内容の一部です。
 私たちは、今、共有している豊かさ、便利さ、あるいは自由という幸せを手に入れていると思っているかも知れませんが、実は、この幸せと思っているものが、我々を罰するためのものであるということに思いをはせなくてはいけないのです。(中略)
 同じ日本語を使っているから、神から別々の言葉を与えられて罰せられているとは思わないかも知れませんが、実は、私たちは言葉が通じなくなっているのではないでしょうか。(中略)
 資源が足りない、限りのある地球上の資源が足りないことはみんな知っているけれど、自分がまず倹約しようというという気は起こさない。地球環境が汚染されているということは分かっているけれど、「政府がやるだろう」「社会福祉がやるだろう」というだけであって、お互い一人一人、骨身にしみて重大な問題として感じていない。おそらく言葉が通じていないのです。現代は、そういう時代です。
 今の幸せは「我々を罰するためのもの」という指摘にドキリとさせられました。“幸せ”と“罰”とは表裏一体の関係にあるということです。盛永老師(以下、老師とします)の真意は、どのようなところにあるのでしょうか。
 政治家が、学者が、そしてボランティアの人たちがいくら口酸っぱく環境問題の深刻さを説き、環境対策を具体的に示しても、なかなか打開への道が開けないのが現実です。理屈では分かってはいても、実践には高いハードルがあります。老師は、そのことを喩えて、「言葉が通じなくなっている」と言っているのだと想います。一向になくならない交通事故の問題にも、同様のことが言えるのかも知れません。
 また、これとは少し離れるかも知れませんが、身近なところにも考えさせられるような光景を見出すことができます。先日も、電車に乗る機会があったのですが、車内にいた若者たちのほとんどが、無言でスマートフォンを操作していました。画面を見ながら、ただひたすら指を動かしているその様子には、異様さえ感じました。
 また、近くの公園には、複数の子どもたちが、横並びになって無言でゲーム機とにらめっこしている姿も見受けられます。子どもの遊びが変化したと言ってしまえば、それまでのことではありますが、遊び盛りのはずの子どもたちのこんな様子を見ると、呆れるのを通り越して、寂しささえ覚えます。(以下、②/④へつづく)

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