2016
05.31

“角成らず”で勝つ ②/④

Category: 未分類
2 [南泉禅師]

 玄氏は、この話を紹介した後、次のように続けています。
 本来、人間は過去をどれだけ集めても、現在から未来にかけてどう生きるとかという答えは出てこない。それは、人間の一生は、将棋のデータの蓄積力が決定打になるようなゲームではないからや。…他人の創った道を歩くことが人生やと疑っていない人にとって、自分の道を創るという発想はない。
 玄氏の指摘には、身につまされるものがありましたが、同時に、いつも例に出す禅問答集『無門関』の中の第十九則にある「平常是道(びょうどうぜどうという話を思い出しました。「平常な心とは果たしてどのような心か?」というやりとりです。
 「平常な心」というと、スポーツ選手がよく口にする「平常心」を思い起こす読者も多いかと思います。どんなプレッシャーのかかる場面に遭遇しても、普段どおりの平静な心で臨むことの大切を表現したものだと理解してます。
 ところが、この禅問答の中で説かれる「平常心」には、これとはやや異なる意味合いがあります。ちなみに、「平常心」は「びょうじょうしん」と読まれます。
 話は、雲水(修行僧)であった若き趙州禅師とその師、南泉禅師との一問一答形式で進みます。以下、山田無文老師の講義記録をもとに紹介します。
趙州「道とは何でありましょうか」
南泉「あたりまえの心が道だ(原文では「平常心是道」です。)
趙州「どうしたらそのあたりまえが手に入りますか」
南泉「手に入れようとしたら、もうあたりまえではないぞ」
趙州「手に入れよう思わなかったら、どうしてそれが道と分かりますか」
南泉「道は、分かったと言ってもいかん。分からんと言ってもいかん。分かったと言えばそれは分別に過ぎない。分からんと言えばまったく無自覚である。分かったでも分からんでもなく、ただ、すらすらと何の不安も疑いもなく、流れる水のごとくに行われるものが分かれば、それが道である」

 南泉禅師の真意は、いったいどこにあるのか…。私のような凡人は頭をかしげるしかありません。そこで、無文老師の解説です。
 ありのままに当為(あるべきものとして)の大道がすらすらと行われるとするならば、それはあらゆる思慮分別を超越した絶対無的自覚においてのみ可能である。…太虚(大空)の如き分別理知を超えた境地から流れる(水のような)心境にして、初めて平常なのである。 
(以下、③/④につづく)

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