2016
08.19

昼間に星を見る ④/④

Category: 未分類
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 これまでも紹介してきましたが、禅には、「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(もくぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、内裏に坐す」という言葉が残されています。金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう。木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう。泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう。本当の仏は、それぞれの心の中に坐っているというわけです。白隠禅師が『座禅和讃(ざぜんわさん』で詠っているように、いわゆる「衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)」です。
 したがって、禅の思想に倣うなら、星は、生まれながらにしてあらゆる人間に具わっているということになります。つまり、禅にあっては、“仏の働き”は、すでに私たちの内にあるわけです。
 こんなことを言うと、それなら初めから何もする必要がないではないかとの声も聞こえてきそうですが、それは違います。何もしないで、それでよしと高を括ってしまう有り様は「自然外道(じねんげどう)」と言って否定されます。それでは、仏道から外れてしまうというわけです。
 星、いえ“仏の働き”は確かに自分の中にあるのですが、探し求める努力をしない限りは、それに気づくことも、見届けることもできなということです。
 星は、私たちの内あり、光っています。しかし、それが見えないのは、やはり“煩悩の炎”のためでしょう。その炎は、星の近くにあって燃え続けているのだと思います。炎のもとになる薪は、我欲(エゴ)から供給されるものでしょう。そして、その火種は“自分を一番可愛いと思う心”だと思います。
 禅では、その我欲(エゴ)、つまりは煩悩の働きを抑え、あわよくば解体してしまおうとします。その手段が、坐禅であり、作務であり、公案(禅問答)なのだと思います。ところが、その一方でと、煩悩が尽きないものであることも認めています。いわゆる「煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)」です。つまりは、禅にあっても“煩悩の炎”には蓋をするしかないということなのでしょう。 
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「他力」だ、「自力」だと言って、比較対象されることの多い浄土門(浄土宗、浄土真宗など)と聖道門(臨済宗、曹洞宗など禅宗)の教義ではありますが、このように考えると、浄土門の立ち位置も聖道門の立ち位置も、結局は同ようにも思えてきます。目指すところは一つです。それは“煩悩の炎”に蓋をすることです。それが、昼間に星を見るということなのではないでしょうか。
 最後に、私の記憶から離れない言葉で、今回のブログを終わりたいと思います。
 口で坐るのが念仏であり、無言で念仏するのが坐禅である (〆)

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