2016
08.15

昼間に星を見る ③/④

Category: 未分類
03_20150503104138759.jpg [親鸞聖人]
 天体の星は、太陽が沈み、夜になれば誰でも見えるようになります。ところが、“仏の働き”は、一定の時間が経過すれば誰でも見られる(感じられる)というような性質のものではありません。私たちの“煩悩の炎”を遮るものはありません。たいがいの場合、最期のときを迎えるまで、燃え続けるのではないでしょうか。              
 しかし、死に直面するときだけにそれに気づくというのでは、あまりにも勿体ないと思うのです。生きているうち、つまり、昼間であっても星が見られないか…、“仏の働き”を感じられないか…、宗教を求める人々の動きというのは、おそらくこんな想いの中から起こってきたではないでしょうか。
 浄土真宗の開祖である親鸞上人には「念仏のみぞ、まことにておわします」という言葉があるそうです。これは凡夫であっても、それなりの努力さえすれば、生きているうちにも救われるチャンスはあることを述べたものだと聞きました。「南無阿弥陀仏」とただ一心に称えることで、“煩悩の炎”をより小さく、あわよくば消し去ることができたとき、昼間でも星、つまり“仏の働き”に気づけるということではないでしょうか。
 いえ、“煩悩の炎”は尽きることがないのですから、念仏というのは、その光が外に漏れ出ることのないよう、そこに蓋をすると言った方が正しいかも知れません。そして、その結果として“仏の働き”に気づき、すべてをお任せするということではないでしょうか。
 その意味では、念仏を称えることには、実は、並々ならぬ覚悟が求められるということでしょう。自分が何もしないで、“仏の働き”を感じさせてくれる、さらに言うなら、誰かが極楽浄土へ連れて行ってくれるなどという虫のいい宗教はないはずです。

 ところで、このことについて禅ではどのように考のでしょうか。蛇足かも知れませんが、以下、私見を述べたいと思います。(以下、④/④につづく)

49-3 
 ※クリックすると拡大して見られます。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/477-664e7297
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top