2016
08.11

昼間に星を見る②/④

Category: 未分類
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 そこで、星の話に戻ります。金子みすゞの詩にもあるように、星は昼間でも存在し、光っています。しかし、私たちには見えません。“仏の働き”も、昼間の星のように、ふだんは見えない(感じられない)ものではありますが、四六時中そこにあり、常に人々を救済しよとうとする働きをしているということです。
 では、“仏の働き”は、どのようなときに私たちに見える(感じられる)のでしょうか。つまり、あたかも星が夜空に輝いて見えるように、それを感じられるのは、どのような場合なのでしょうか。
 それは、私たちが最期のときに差し掛かったときではないか、というのが私の意見です。すべての生理的な機能を失い、自力では何もできなくなったときのことです。それは、まさに究極の暗闇なのではないでしょうか。
 そのとき、忽然として星、つまり、“仏の働き”が見える(感じられる)ということでないかと思うのです。それは、自分が“仏”に象徴される大きな力に支えられ、命を永らえてきたことへの本源的な気づきであり、人生の終焉に臨むことでやっとたどり着ける境地と言えるかも知れません。    
 (ただし、誤解のないように申し添えますが、これは全くの私の想像の域を出るものではありません。)

 ところで、星が昼間に見えないのはなぜでしょうか。当然のことながら、太陽の光に遮られるからです。こんなことは、小学生でも知っています。
 しかし、それ以外にも理由があるのではないかというのが、今回の院住さんとの対談から生まれた、私なりの発想でした。こんなことを言うと奇異に感じられるかも知れませんので、あらかじめお断りしておきますが、あくまでも喩え話でのことです。以下、そのように受け止めてください。
 星、つまり“仏の働き”が、ふだん私たちに感じられないのは、私たち自身が、自ら発している光があまりにも強いからではないからではないでしょうか。その光というのは、“煩悩の炎”に由来するものです。
 「貪瞋痴(とんじんち)」の、いわゆる“煩悩の炎”は、実に強力です。煩悩は、三毒(「貪る心」「怒る心」「愚かな心」)とも呼ばれ、私たちの心の奥深くに巣くっています。しかも、容易に排除したり抑えたりすることはできません。その炎は、初め小さく発火しますが、ときが経つにつれて次第に火力を強め、光量もだんだん増していきます。その光に眩惑され、星の光、つまり“仏の働き”が見えない(気づけない)のが、私たちのふだんの有り様ではないでしょうか。そして、そんなときの私たちは、たいがい自分の力だけで生きていると思っているものです。(以下、③/④につづく)

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