2016
04.05

しゃもじになる④/④

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 臨済の説く心は、いわば煩悩(エゴ)が起きる前にある心です。それは、生まれながらに誰もが持っているいわば“本来の心”(「無の心」「空の心」あるいは「ゼロの心」)とも言えるもので、焼くことも、流されることも、壊れることもない、いわば絶対的な心です。そして、臨済は、その心によって認識される世界以外のものに心を向け、惑わされてはならない迫ります。
 “しゃもじ”を例にその真意を噛み砕いて言うなら、“しゃもじ”を“しゃもじ”として、正しく認識し、それが持つ固有の価値や役割を認めた上で、それを最後まで使い切るということなのではないでしょうか。よその家の“しゃもじ”と比較して、使いにくいと不平を言ったり、デザインが悪いと不満を漏らしたり、あるいは、まだ使えるのに安易に新しいものに買い換えたりしてはならないということでしょう。
 さらには、“しゃもじ”の横に美味しそうな味噌汁の入った鍋があったとしても、それを“おたま”に見誤ったり、あるいは周囲の圧力に屈して、“おたま”だと言うようなことはあってはならないということではないでしょうか。
 すべてのことは現状で満ち足りており、無駄なものも一つもない「心地の法」が伝えようとしている真意はここにあるのだと思います。

 ところで、ここでは“しゃもじ”を例にとりましたが、凡夫である私たちは、常々、これに類する浅はかな行いをしていることが多いのではないでしょうか。
 一つの「もの」に出逢ったとしても、自分の価値観や都合、選り好みなどをもとに、きれい、きたない、美しい、醜い、好き、嫌い、うまい、まずい、可愛い、憎いなど、実に様々な感情が生まれます。そして、それをもとに差別や選別をしたり、ときには他者との間に争いを起こしたりすることもあります。
 しかし、それらのいわば二次的な感情は、時が経ち、状況が変われば変化していきます。それらは相対的なものであり、その意味ではすべて仮のものです。そんなものに、引きずられ、縛られ、操られて右往左往するのは馬鹿げているということでしょう。
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 凡庸な私には、臨済のメッセージの奥義を読み解く力はとてもありません。後は、読者の皆さんの卓見にお任せするしかありません。ただ、臨済の理屈に倣うなら、無心で“しゃもじ”を使っているときの私は、“しゃもじ”に転じている(なっている)ことになります。
 そう言えば、私が“しゃもじ”の所在を妻に尋ねているとき、私の手はしゃもじの形を作っています。また、“はさみ”を探しているときには、人差し指と中指ではさみをの形を作っているのです。考えてみれば、これも不思議なことです。
 これからも、“しゃもじ”を使うときには、あらゆる余念を廃し、“しゃもじ”に成り切るように努めようと思っています。そのとき、“しゃもじ”は、きっと最高の働きをするのだと思います。そして、私は、“しゃもじ”になるのです。
 こんなことを考えているから、脳天気だと言われるのでしょうか。 (〆)                                        
   

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次回は「世界で一番貧しい大統領のスピーチ」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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