2016
04.01

しゃもじになる③/④

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 私の独断的な解釈ではありますが「心地の法」というのは、心があたかも大地の如く、認識の世界の中に様々なものを生み出してくるということを言っているのではないでしょうか。
 しかし、ここで注意しなければならないのは、心から世界が出てくる…、心が世界を造っている…、ということではないということです。その意味では、臨済の説く認識論は、決して「唯心論」ではありません。もちろん、「唯物論」でもありません。心(あるいは意識)が、何ものかに出逢うことによって、それが認識され、実在し、現実的な意味が生まれてくるという、ごく当たり前の事実を述べたものです。
 『臨済録』では、このようなものの見方・考え方から、驚くべき世界観が展開されます。曰く、
 「心は万境(ばんきょう)に随(したが)って転ず、転処(てんしょ)実に能(よ)く幽(ゆう)なり」と。
 無文老師の解説の解説です。
 心というものは、あらゆる外の世界にしたがって自由自在に動いていき、その動くところは、実に奥深く、容易にはかり知ることができない…。
 鶯が鳴けば鶯になり、花が咲けば花になり、月が出れば月になり、また自動車が通れば自動車になり、外の世界と一つになって自由自在に動いていく…。
 このような心が持つこのような特性と働きのことを、臨済は「心地の法」と言っているのだと思います。その心が外の世界と一つになって、私たちの肉体(感覚器官を含む)を使って、主体的に、また創造的に働いていくということです。
 ただ、誤解のないように申し添えますが、決してものの存在(肉体も含む)を認めないのではありません。それを認めながらも、あくまでもリードするのは心であるということです。
 このことを臨済は次のように表現しています。曰く、
 「眼に在(あ)っては見るといい、耳に在っては聞くと云い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しっしゃく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す」
 つまるところ、臨済は何が言いたいのでしょう。
 以下、私見を述べたいと思います。 (以下④/④につづく)

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