2016
03.28

しゃもじになる②/④

Category: 未分類
rinnzai.jpg [臨済義玄 禅師]
 もう一つ例をあげたいと思います。私は眼鏡をかけています。当然のことながら、眼鏡をかけているときには、その存在を認識できます。ものがよく見えるということもありますが、それ以外にも、眼鏡のフレームやレンズの一部くらいは視野に入ります。
 では、眼鏡を頭(おでこ)にかけたとしましょう。加齢などの理由で近距離の物が見にくくなるためによくある、いわゆる“頭眼鏡”の状態です。すると、私のようなうっかり者には、往々にして次のような事態が起こります。つまり、
 「あれ?眼鏡はどこだ?」「ネェーッ。眼鏡をどこかで見なかった?」と。
 まるでお笑いのコントを見るようなシーンではありますが、実はこれが私たちのふだんの有り様ではないでしょうか。存在していても、認識されなければ、実在しません。そして、現実的な意味もありません。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)の、いわゆる五官に触れるものだけが実在するということです。
 ところで、臨済宗の宗祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の語録を集めた『臨済録』の中に、「心地の法(しんちのほう)」という言葉があります。次が、臨済の言葉です。
 道流(どうる)、山僧(さんそう)が説法、什麼(なん)の法をか説く。心地(しんち)の法を説く。
 山田無文老師は、この一文を次のように解説しています。
 臨済の説くところの法とはどんなものであるかと言うならば、それは心地の法である。大地を麦を生み出し、大根を生み出し、人参を生み出し、茄子を生み出し、胡瓜を生み出すように、お互いの心の大地から森羅万象、神も仏も天地宇宙ことごとく生み出していくのだ。心地の法だ。お互いの認識がすべての実在を現成していくのである。 
  また、臨済の言葉として次のようなものもあります。
 道流、心法(しんぽう)形無(かたちの)うして、十方に通貫(つうかん)す。
 次が、この一節に対する山田無文老師の解説(一部)です。
 何か知らん、あるものと心、意識が一つになって、そこに太陽をあらしめていくのだ。お互いの認識の世界に上がって来る太陽はお互いの認識の中にしかないのだ。お互いの実感として受け取っていく世界は、お互いの認識の中の世界だけである。それ以外のことは不可知である。…心が届かなければ、物があったって意識には上がって来ない。お互いの心が十方に通貫するから、十方世界が意識に上がって来るのだ
(以下③/④につづく) 

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