2016
03.24

しゃもじになる①/④

Category: 未分類
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 退職してから、台所に立つ機会が増えました。少しでも妻の助けになればとの思いもありますが、その一方で、根っからのせっかちな性分のため、早く食事にありつきたいという身勝手な動機にも起因するものです。
 そんなとき、探し物をすることがよくあります。たとえば、“しゃもじ”や“おたま”など、盛り付けに使う道具などです。ところが、近くにあるのにそれを見つけられず、妻に救いを求めることがあります。多くの場合、それらのものが定位置に置いてなかったり、物陰に隠れていたりしているのですが、困るのは、目の前にあっても見つけられないこともあるということです。最近はそんなことが増えてきました。
 ところで、そんな時、ふと思うことがあります。“しゃもじ”が「ある」ということと、それを私が「知る」ということの間には、ギャップがあるということです。つまり、“しゃもじ”がそこに「存在」することと、それを「認識」することとは別のことだということです。
 具体的な例を挙げてみたいと思います。今、私がテーブルの上に“たまご”を置いたとします。そこに“たまご”以外のものがなく、その姿を遮るような状況がないとしたら、それを「ある」と「知る」ことは容易でしょう。つまり、私たちは、「テーブルの上に“たまご”がある」と認識できます。
 では次に、この“たまご”を上から手で覆ってみます。すると“たまご”は手の中に収まり、外からは見えなくなります(小振りな“たまご”の話ではありますが、それでも指の隙間から見えそうだと思われる方は、ウズラの“たまご”でも想定ください)。
 この時、自分の手で覆ったのですから、そこに“たまご”が「ある」ことは、容易に認識できます。そこに疑いの余地はありません。
 しかし、そこに別の部屋にいた妻がやってきたとします。妻は、私の手の中に“たまご”があることを全く知りません。この場合、妻に“たまご”は「ある」でしょうか。おそらくは「ない」でしょう。妻は“たまご”を認識できていないからです。
 その時、玉子焼きを作ろうとして台所にやってきた妻は、何のためらいもなく、冷蔵庫を開けることになることになるでしょう。(以下②/④につづく)

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