2015
08.11

竹が割れた ④/④

Category: 未分類
hoshino01.jpg [星野富弘氏]

 ところで、これまでも何度も紹介してきたように、仏教には「無情説法(むじょうせっぽう)」という思想があります。動物や植物、あるときは鉱物なども含めなど、無情、つまり「心」を持たぬものでも、無言のままに真理を説いているという考え方です。
 「心」は、意識と同義と受け止めてよいかと思います。意識から離れてあることを「悟り」と定義するなら、これらのものたちは、すでに悟っている、故に、彼らは、そのまま(の姿)で「仏」であると見るのが仏教の立場です。したがって、無情の説法を聴くということは、私たちのもつ「人間は万物の霊長である」という驕りを正すことに他なりません。
 私的なことですが、幼いときに育った家の裏には、竹藪がありました。小さな竹藪ではありましたが、太い孟宗竹が昼間も日差しを妨げるほど密集していました。決して雪深い地域ではありませんでしたが、大雪に竹藪が覆われた光景は、今でも思い出すことができます。
 今、その竹藪は残っていませんが、もし、同じような光景に接したとき、私にも星野富弘氏のような見方ができるかと言えば、それはとても叶わないでしょう。竹を“心を持つもの”として観ていける…。それは、星野氏だからできることなのだろうと思うのです。
 首から下の自由を失うなどということは、私たち健常者からすれば想像もつかないようなハンディです。しかし、逆に、それが自然にあるものたちとの一体感を生み出す力になっているのではないか…。不謹慎という誹りを受けるかも知れませんが、そんな思いも湧いてきます。
 禅が目指すところは、“自分の中にある自然に気づくこと”にあるという言葉を聞いたことがあります(山川宗玄老師[岐阜県 正眼寺住職]の言葉)。“自分の中にある自然”というのは、自我(煩悩)から離れることによって得られる、「自他一如」につながる原初的な感覚の働きのことではないでしょうか。すべての「いのち」は無限の関係性の中にあり、つながりのない「いのち」などこの世には存在しないという直感的な気づきのことです
 私たちは、日々、自我(煩悩)に引きづられ、縛られ、迷いながら生きています。そして、いつも右往左往しています。勝手な想像ではありますが、星野氏は、身体の自由を失ったとことで、逆に自我(煩悩)の影響から解き放たれ、人間本来の感覚を蘇らせたのかもしれません。そして、そのことにより草花など、自然界にあるものに対する優しくも、しなやかで細やかな感覚や感情が芽生え、あのような心に響く絵や文が生み出されているのかもしれません。
 私のような凡人に、果たして、そのような境地の訪れる日がくるのでしょうか。生きている間に少しでも近づきたいと思うのですが、それがとても難しいのです。厄介なことです。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「布袋さんの笑顔」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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