2015
08.07

竹が割れた ③/④

Category: 未分類
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 ところで、竹林に降り積もった雪が、ある瞬間、一本の竹の劇的な変化によって払い落とされ、明るい日差しが入ってくる様子を目撃しただけで、このような詩にできる星野富弘氏(以下、作者とします)の豊かな感性には、敬服するばかりです。その繊細さ、しなやかさ、清らかさなど、わたしのような凡人が持ち得ないものです。
 また、作者は、竹のことを親しみを込めて「おまえ」と呼んでいます。作者にとって、竹はどんな存在なのでしょう。少なくとも、作者の中には「人間は万物の霊長である」との意識はないだろうと思います。竹と人間とを同等・同値のものとして捉えない限り、このような詩は書けないはずです。竹を“心を持つもの”として見ているということなのだと思います。
 仏教には「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」という考え方があります。文字どおり、山や川、草や木にも仏性(仏の性質)があるということです。キリスト教の洗礼を受けているという作者の意には沿わないかもしれませんが、そのバックボーンには、この思想に近いものがあるように思われてなりません。
 竹を、単に一植物として見るのではなく、“心を持つもの”あるいは“仏の性質を持つもの”として捉えることで、見え方は全く違ってきます。
 以前にも紹介したように、仏教には「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」という言葉があります。自分を救うことよりも先に、相手を救うことこそ尊いという、「大乗仏教」の根本を支える思想です。「自他一如」もこの思想に連なるものです。
 その意味で、割れた竹は、まさに「自未得度先度他」の実践者とも言えます。その有り様を、人間の有り様に重ね合わせたとき、心洗われるような感覚に襲われるのは私だけでしょうか。  (以下、④/④につづく)


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