2016
02.01

「天心が伝えようとしたこと」③/④

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 では二つ目の「相対性の認識」とはどのようなことなのでしょう。
 テキストに引用されている天心の言葉です。


 現在というのは、絶えず変転しつつある無限のあらわれであり、相対の立場である。この相対性にどうやったら正しく対応できるのか、その秘訣が「この世に生きる術」なのである。身の回りの状況を絶えず調整していく術である。道教はこの世をありのままに受け入れるのであり、嘆かわしいこの世の暮らしのうちにも美を見いだそうとするのだ。(中略)
 禅が東洋思想に特に貢献したのは、日々のありふれた暮らしに宗教儀礼などと同様の重要性を認めたことだった。(禅は)この世を結びつけている広大な相関関係から見れば大小の区別はとるにたらず、一個の原子のうちには宇宙全体に等しい可能性が内包されている説いたのである。


 現実というのは相対という姿であらわれてくる…。したがって、相対としての現実を丸ごと認め、それに対処していくことが「この世に生きる術」があり、このようなあり方の中にこそ美がある…。このような主張かと思います。
 現実というは相対という姿でしかあらわれようがないという認識に立つなら、この世に大も小もありません。長も短もありません。貴も賎もありません。すべては同値であり同等です。比較しても何の意味もありません。
 以前にも紹介したことがありますが、禅には「柳は緑、花は紅」という有名な言葉があります。文字どおり、柳は緑色であり、花(この場合は桃の花を指します)は紅色であるというごく当たり前のことを述べたものですが、これは「柳は緑」であること、「花は紅」であることが真理だということです。柳は花にはなれません。花は柳にはなれません。共にそのままで最高の存在であるということです。現実にある相対、つまり“違い”をそのままに認めていくことが最も理にかなっているということです。
 禅には「脚下照顧(きゃっかしょうこ)という有名な禅語がありますが、これは、日常の何でもない生活を直視することの大切さ説いたものです。歩く、止まる、坐る、寝ることから、衣服の着脱や食事をすることに至るまで、どんな些細なことでも、その一つ一つに心込め、ていねいに当たっていくことが最も尊く、美しいというメッセージだと思います。
 茶聖とされる千利休に次のような歌があります。
 稽古とは 一より習い十を知り 十よりかえる元のその一
 茶道の稽古は、一から十まで進んだとしてもそれで完成ではない…、そこから、また改めて一から一つずつ学んでいくという繰り返しにこそ、その真意があり、美しさがある…。天心の説く、茶道における「相対性の認識」という思想と禅の思想との類似点は明らかだと思います。(以下、④/④につづく)

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