2016
01.29

「天心が伝えようとしたこと」②/④

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 また、「不完全性の美学」は「虚の美学」でもあり、この場合にも「虚」(「無」と同意)であることによって、そこに無限の可能性が開かれるという思想が読み取れるという記述もありました。
 テキストでは、天心の次のような文章が紹介されていました。
 老子によれば、真に本質的なものは虚のうちにしかないというのである。たとえば、部屋というものの実質は、屋根や壁それ自体にではなく、屋根や壁に囲まれたからっぽの空間にある。また、水差しが役に立つのは、その形や材質にあるのではなく、水を容れるからっぽの空間によるのである。虚は全てを容れるが故に万能であり、虚においてのみ運動が可能になるのだ。自分をからっぽにして自由に他人が出入りできるようにすることを心得た者は、どんな状況でも自由にコントロールすることができるようになるだろう。
 茶室のことを「数寄屋(すきやとも呼ぶことがあるそうです。好みの家という意味の「好き家」から、「空き家」、つまり、からっぽの家となったと聞きました。一切の無用なものを排除した空間が茶室であるというわけです。
 不完全であるからこそ、無限の可能性があるということの真意を考えるとき、この「空き家」は一つのヒントになるのではないでしょうか。物質的な現実はすべからく変化していきます。無限とか永遠とかといったものは、モノに宿るのではなく、精神にしか見いだせないということです。一切の余計な装飾を排除した、静寂に包まれた小さな空間の中で、あたかも秀逸な詩の行間を読むかのように自由自在に思いを巡らせることの豊かさ、贅沢さを味わえるのが茶室なのかも知れません。
 曹洞宗の開祖である道元禅師の有名な言葉に「放てば手に充てり」がありますが、これもこの真実を述べたものではないでしょうか。曰く、
 「坐禅修行をすることで、思いを手放し執着を捨て、心を空にすれば、真理と一体になった豊かな境地が手に入る」と。
 「無」は「空」に通じるものです。「空」は「絶対無」という言い方もあるように、単純なからっぽの状態のことではありません。逆に「あるもの」によって隈なくく満たされている状態を言います。したがって、その「あるもの」にどう思いを馳せるのか、それは茶室に訪れた私たち一人一人の心の働きに託されるということなのでしょう。
 それに、蛇足になるのかもしれませんが、何かを掴んだままの手に別のものは掴めません。思い切ってそれを手放してみると、案外「なんだこんなつまらないモノを掴んでいたのか」ということになるのかもしません。(以下、③/④につづく)

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