2016
01.21

「太古の民のおどろきを」④/④

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  「前文化的記憶」も「仏性(仏心)」も、いずれも自我(エゴ)の影響を受ける前の心の有り様であるという点で共通しています。
 少し飛躍するかも知れませんが、その意味では、禅における「悟り」の体験というのは、内田氏の言う「前文化的記憶」、無文老師の言う「自我の自覚以前、(中略)経験以前の『無』としての本心」に回帰することなのではないでしょうか。本源的な記憶に立ち帰り、本来に具わる「無」としての本心、言い換えるなら、仏性(仏心)とも呼ばれる心の有り様に気づく体験、それが「悟り」の体験なのだと思います。そこに「自他一如」の世界があり、「大慈悲心」の源泉があるということなのだと思うのです。
 冒頭で、「見る」ことと「聞く」ことを比較し、自我(エゴ)の影響を受けやすい「見る」という行為は、「悟り」の体験から遠いのではと言いました。しかし、このように考えてくると、「見る」ということの中にも、「悟り」のチャンス、つまり、仏性(仏心)に気づくチャンスがあることに気づかされます。

 さまざまな価値観が錯綜する混沌とした時代に入ってきました。国内外の情勢、国家間の問題は言うに及ばず、私たちの日常生活までが迷路に足を踏み入れたようで、閉塞感は増すばかりです。この先、私たちが生き延びていくための術が果たしてあるのかとの思いが募ります。
 そんな中、希望を込めながら仮説を立ててみたいと思います。
 内田氏の言う「前文化的記憶」と無文老師の言う「経験以前の『無』としての本心」に通じる全人類に共通にする心へ回帰することできたら、かすかであるかもしれないが光が見えてこないか。
 私たち凡人に、禅が目指すような「悟り」の体験はできません。しかし、大海を前に高村光太郎が受けたような「圧倒されるような感覚」なら、誰もが味わうことができるではないでしょうか。
 水や火、風、光といった自然がつくり出す普遍的な「美」、あるいは「音」に触れ、「圧倒されるような感覚」に浸っているとき、私たちの自我(エゴ)は一切働かないのだと思います。そのとき、脳に「快」という報酬をもたらしながら立ち現れてくるのが「自他一如」の境地ではないでしょうか。時空を共有しているという実感と言ってもよいかとも思います。その一点において、私たちは“一つになる”チャンスがあるのではないかと思うのです。
 私も含めてのことですが、現代人には、このような体験があまりにも少ないのかも知れません。その意味では、美術や音楽など芸術分野の持つ役割は大きいと言えるでしょう。内田氏の言うように、芸術は人々を結びつけていく有力なツールになると思います。しかし、高村光太郎の詩に学ぶなら、日常的な場面でも「圧倒されるような感覚」を味わい、それに浸れるチャンスはあるのではないでしょうか。
 さて、読者はこれまでそのような体験をされことがあるでしょうか。また、この先どのような体験をすることでそのチャンスを得ようとお考えでしょうか。
 ご意見をお待ちします。(〆)

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次回は、「天心が伝えようとしたこと」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。

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