2016
01.17

「太古の民のおどろきを」③/④

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 また、先の書籍の別のページには、脳の働きと「美」との関係について興味深い記事がありました。川畑秀明氏(慶応大学 準教授)の話として掲載されたものでした。
 それによると、美しいと感じているときの脳の働きはどの人にも共通するもので、前頭葉下部にある「報酬系」と呼ばれる神経回路の一部が、欲求が満たされるときや満たされることが分かっているときなどに活発に働くとのことでした。具体的にはドーパミン回路が活発化するとありましたから、それにより心が「快」の状態になるのでしょう。
 また、「共通性」を具えた美というのは、単にきれいという印象を超えた「圧倒されるような感覚」を生むという指摘もありました。
 川畑氏の言う「共通性」を具えた美と、内田氏の言う「人類の普遍的な美」とは同意のものと解釈できます。また「圧倒されるような感覚」というのは、「前文化的記憶」に連なる脳の働きによるものではないでしょうか。
 高村光太郎の詩に戻るなら、海の持つ壮大さ、荘厳さに圧倒されるような感覚は、決して光太郎だけの個人的な感覚ではなく、人類が普遍的に具えている感覚であるということだと思います。

 ところで、私は、この「圧倒されるような感覚」に連なる「前文化的記憶」と「仏性(仏心)」と同質ものではないかと思うのです。またぞろ抹香臭い話が始まるのかと、眉目を寄せられる読者もあるかと思いますが、どうかお許しください。
 「前文化的記憶」というのは、文字どおり人間が文化を築きあげる前の記憶のことです。そこには、年齢や性別、国籍、言語、あるいは時代、社会、思想、信条など後天的な要素が入り込む余地はありません。誰もが生まれながらに具えている記憶であり、人間としての自我(エゴ)が介入する前のいわば本源的な記憶のことでしょう。
 一方、「仏性(仏心)」とはどういうものなのでしょうか。これには、さまざまな見方、考え方、そして表現の仕方があるかと思いますが、山田無文老師の言葉に次のようなものがあります。
 「自我の自覚以前、自他の対立以前、知識以前、経験以前の『無』としてのお互いの本心」
 「仏性(仏心)」という言葉に触れたとき、私はいつもこの言葉を起点にして考えるようにしています。
 言うまでもなく、仏性(仏心)というのは、自我(エゴ)と対極にあるものです。それは、個人的な感情や思考、認識、理屈、あるいは選り好み、癖、都合など、自我(エゴ)によって生み出されるあらゆる要素を超越したところにある心と、それに連なる感覚の働きです。(以下、④/④につづく)

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