2016
01.11

「太古の民のおどろきを」①/④

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 禅には、古くから「悟り」の体験にまつわる逸話として、音に関わるものが多く残されています。以前にも紹介したことがありますが、一休禅師は、カラスの鳴き声、白隠禅師は寺の梵鐘の音を聞いて「悟り」を開いたと伝えられています。また、中国(唐代末期)には、香巌智閑(きょうげんちかん)という高名な禅僧は、掃除中に竹に小石が当たる音を聞いて「悟り」を開いたというという逸話もあります。それに、白隠禅師の有名な公案「隻手の音声」も「音」にかかわる問いかけです。曰く、両手を打ち合わせればパンッ!と音がするが、片手で打ったときには、どんな音がするか…?
 禅では、なぜこのように音にこだわるのでしょうか…?これには、次のような理由が考えられます。
 私たちは、見たいものを見、聞きたいものを聞いています。つまり、選り好みをしながら、自分に都合のよいものだけを取り入れ、都合の悪いものは受け付けません。常にその繰り返しです。そのために、なかなか真実の姿(実相)を認識できません。そこに自我(エゴ)が働くからです。
 ところで、「見る」ことと「聞く」ことを比べたとき、どちらが、自我(エゴ)の働きから遠いと言えるのでしょうか。
 私見ではありますが、「見る」という行為に、より意図的な傾向が強いように思います。「注目する」、「着目する」、「凝視する」あるいは「無視する」などのように、「見る」という行為にまつわる言葉はたくさんありますが、いずれも、私たちの想いや都合によって「見方」は変化します。「見る」という行為には、自我(エゴ)が色濃く写し出されます。
 それに比べて、「聞く」という行為は、自我(エゴ)に縛られません。「耳をそばだてる」、「耳をふさぐ」などの言葉もありますが、目を閉じるように簡単に外からの情報を遮断できないのが、耳の特徴的な構造です。
 このように、音は、通常、私たちの想いや都合に関係なく、ありのままに耳に届きます。したがって、基本的に「聞く」という行為に自己都合はありません。
(以下、②/④につづく)
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