2015
12.23

「煩悩の行方」③/③

Category: 未分類
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 枯れ葉を取り除く作業に重ね合わせて考えてみたいと思います。
 枯れ葉を取り除き、我が家の軒先をきれいにしたいというのは、欲から生じるエネルギーです。そして、その結果、軒先がきれいになれば、そこに達成感や満足感が生まれ、気分もよくなるでしょう。また、世間の目を気にしなくても済むようになるでしょう。したがって、ここまでは「自利」ということになるのだと思います。
 では、「利他」をどう具現化するのでしょうか。我が家の近くを町内の人が通ったとします。そのとき、たまたま「○○さんの軒下がきれいになって気持ちよくなったな」などと感じてもらえたとしたら、それも「利他」ということになるのかも知れません。しかし、こんなご都合主義的な解釈は許されないでしょう。町内に住むどれだけの人が、我が家の軒先の状態に注意を払い、美しく保たれることに期待を寄せているでしょうか。ほとんど皆無のはずです。「利他」に求められるのは、そのような在り方ではないと思います。
 それは、全てを「心あるもの」として見ていくという在り方ではないかと思うのです。具体的には、きれいになって庭が「喜んでいる」という見方です。
 こんなことを言うと「何を子どもじみたことを言っているのか」「絵本の世界の話でもしているのか」とお笑いになる読者もあるかも知れません。はたまた呆れて、この先、読み進むことを拒否される読者もあるかも知れません。
 しかし、私はいたって真剣なのです。全てのものに心(「仏心」あるいは「仏性」)があるという見方、考え方は、今から約2,500年前、釈迦が解き明かした真理に基づいて築き上げられた仏教固有の世界観です。いわゆる「山川草木悉有仏性」あるいは「山川国土悉皆成仏」という仏教の核心的な世界観です。私は、この世界観に強く心を惹かれるのです。
 このような世界観に立って我が家の庭や、以前、本ブログで紹介した我が家の床や便器などに思いをめぐらすなら、それらのものたちが“きれいにしてもらった”ことを「喜んでいる」という発想は、少しも奇異なことではないと思うのです。そして、このような見方に立てば、それはそれで立派に「利他」を実践できていることになります。子どもじみた発想に映るかも知れませんが、私には、今それが妙に納得できるのです。
 「自利」が動機であっても、それが最終的に他者から「喜ばれる」結果を生むなら、それが「利他」になるというのが私の解釈です。その意味では、欲から生じるエネルギーも、それが結果として広い意味での他者から「喜ばれる」かたちで現れるなら、それは「煩悩」ではないということになるのかも知れません。
 独りよがりの都合のいい解釈かも知れません。しかし、私は、こう考えることで、救われた気分になることが増えてきました。そして、そのことをありがたいと思えるようにもなってきているのです。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「笑うと咲く」を掲載(2回配信)します。ぜひご訪問ください。
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