2015
12.19

「煩悩の行方」②/③

Category: 未分類

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 ところで、青山俊董氏(曹洞宗 愛知専門尼僧堂堂長)が法話の中でたいへん興味深い詩が紹介されていました。下村湖人の詩です。

 あなたと私とは、今ばらの花園を歩いている。あなたは云う、―
 「ばらは美しい、だが、その下には恐ろしいとげがある」と。
 けれども、私は云いたい、―
 「なるほど、ばらにはとげがある、それでも、こんな美しい花を  咲かせる」

 一つのばらを見ても、ある人は花を見る、またある人はトゲを見る…。作者からのメッセージは、「よいところを見ていく生き方をせよ」ということにあるのだと想像します。しかし、青山氏は、この詩に対して、別の読み味わい方があると指摘します。


 「トゲを作るエネルギーも、花を咲かせるエネルギーも一つだということです。一つのいのちのエネルギーがトゲとなり、あるいは花となるのです。トゲをとるために幹を傷めてエネルギーを奪ってしまったら、花も咲かなくなるでしょう。欲とは大事なエネルギーで、欲自体が悪というわけではありません。欲というエネルギーの方向づけを誤らないようにすることが一番大事なことです。」


 「欲というエネルギーの方向づけ」という一文に目が止まりました。「貪・瞋・痴」の「煩悩」も、間違いなく欲に根ざしたエネルギーの一種です。それに引きづられて苦悩することの多いのが人間ではありますが、同時に、「煩悩」は生きるエネルギーでもあります。「煩悩」の全てを否定してしまったら、私たちは生きていけません。そんなことをしたら、“人間の日干し”になってしまいます。
 そこで、以下は、いつものように私見です。
 「方向づけ」ということを問題とするなら、やはりキーワードは「自他一如」でないかと思うのです。「わたし」は、「わたし」であると同時に「あなた」でもあるという認識とそれに基づいた実践です。
 当然のことながら「自利(じり)のみを追求するような生き方は認められません。それが、欲を三毒の方向へ向かわせることは明白です。
 一方、「利他」りた)を優先させる生き方はどうでしょうか。大乗仏教の根本理念に随うなら、これこそが理想的な在り方と言えるでしょう。いわゆる「自未得度先度他(じみとくどせんどた」という方向づけです。
 しかし、自分をの利益を考える前に、周りの人の利益を実現するなどということは、簡単なことでありません。とりわけ、私のような凡人には、たいへん高いハードルです。世知辛いご時世にあって、現実味に欠ける方向づけだとの批判も聞こえてきそうです。
 やはり、「自利」と「利他」を同時に、バランスよく実現していくような生き方が望ましいのだ思うのです。欲というエネルギーを「自利」と「利他」という二つの要素を兼ね備えさせながらコントロールしていくという在り方です。
 湖人の詩になぞらえるなら、さしずめ、ばらのトゲが「自利」、そしてばらの花が「利他」ということになるのでしょうか。トゲで自らの身(幹)を守り、同時に、花で他者に癒しを与えていくというようなイメージになるのかと思います。
(以下、③/③につづく)
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