2015
12.15

「煩悩の行方」①/③

Category: 未分類
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 正月も近いことから、妻と一緒に我が家の軒下の掃除をしたときのことです。枯れ葉を拾い集め作業をしながら、ふとこんな言葉が口をついていました。
 「枯れ葉を拾いながら、煩悩を拾っているようなものだね」
 妻も薄々その意味が分かったようでした。
 軒先に落ちた枯れ葉、それは我が家にとっては厄介なものです。それを外部の人が見たらどう思うだろうか?掃除が行き届いていない家のように思われないだろうか?無精な住民の住む家のように思われないだろうか?など、次々と、世間体を気にした懸念が浮かびます。
 ところが、よくよく考えてみれば、それは私の勝手な妄念、妄想であって、世間の人がほんとうにそう思うかどうかは分かりません。ほとんどの人が、我が家の軒先に小さな庭があることなど知らないでしょうし、そもそもよその家のことなど関心がないという人もたくさんいるはずです。
 しかし、そうではあっても世間体というのは気になるものです。これが「煩悩」なのではないでしょうか。人間の心身を煩わし悩ませる妄念(迷いの心)です。 「煩悩」というと俗に「貪・瞋・痴」の三種類(三毒)があるとされますが、この場合の「煩悩」は、さしずめ「痴」ではないでしょうか。世間体を気にして、苦悩や苦労の種を自分で作り出し、悩み、苦しんでいる…。無視することもできるのにそれがなかなかできない…。少しでも自分の家(いえ、自分自身)をよく見せよう、飾り立てようとする浅はかな心の動きではあるのですが、私たちにはその心をなかなか抑えることができません。これが「痴」の持つ厄介な側面だと思います。
 枯れ葉を拾い集める作業を「煩悩を拾う」と喩えましたが、枯れ葉はなくなりません。目の前にある枯れ葉を全て拾い集め、ゴミ袋に入れてしまえば、庭はきれいになり、気分もよくなります。ところが、枯れ葉の落とし主は、我が家の庭の落葉樹ばかりではありません。周辺にはいくらでも落葉樹はあります。ひとたび風が吹けば、枯れ葉は舞い込んできます。枯れ葉を「煩悩」に見立てるなら、「煩悩」は拾い切れないし、捨て切ることもできません。また、無くなるということもありません。いわゆる「煩悩無尽(ぼんのうむじん)」です。
 以前、床拭きの話をしたことがありましたが、これも同じことでしょう。(「因果一如」参照)私の床拭きや便器磨きの動機は、純粋にそれをきれいにしたいという願望の他に、急な来訪者など第三者の目を意識したものも含まれるのだと思います。
 結局、私たちは、棄て難く「煩悩」を抱えながら生きていくしかないのだと思います。(以下、②/③につづく)

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