2015
11.29

良寛さんの「鍋」②/⑤

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 ある日、良寛さん(江戸時代後期の曹洞宗の僧侶)のところへ一人の旅人がやって来ました。わざわざ越後の山中に訪ねてねてきてくれた知人です。良寛さんはこの旅人を大事にもてなします。旅人が足を洗えるよう、良寛さんは器に水を入れて用意します。次にお茶を出し、夕食には粥を供します。
 そして翌朝になると、洗面のために水を用意します。
 ここまできて、どうやら旅人も気がつきます。彼は、恐る恐る良寛さんに尋ねます。
「ひょっとすると、これは鍋ではありませんか?」
「ああそうだよ」
良寛さんはすまし顔で答えます。
旅人は驚いて訪ね返します。
「では、昨日はこの鍋でお粥をつくってくださった?」
「そうだよ。私は鍋を一つしか持っていないからね」
「では、昨日私が足を洗ったのもこの鍋で?」
「ああ、そうだよ。さあさあ、早く顔を洗ってくだされ。その鍋で、朝粥を作らなければならないでのう」


 まるで学芸会で演じられる児童劇を見るような逸話ではあります。足を洗うときは…、煮物をするときは…、顔を洗うときは洗面器…。一つの器をそれぞれ場面に応じて使い分けているその様子は、良寛さんの清貧枯淡な生き方を象徴するものと言ってよいでしょう。
 では、この話から、「空」ということをどのように受け止めたらよいのでしょうか?以下は、いつものように私見です。
 先に、固定的な実体がないことを「空」というと言いました。そして、現象世界にあるものは、すべて仮のものであるとも言いました。
 そこで、この器ですが、良寛さんが示してくれたように「鍋」ではありますが「鍋」ではありません。「桶」ではありますが「桶」でもありません。また、「洗面器」ではありますが「洗面器」でもありません。つまりは、この器に固定的な実体がないということです。これが「空」ということです。
 私たちの身の回りにあるものは、使う側の都合によって、さまざまな役割を持ち、それらしい名称が付けらています。けれども、すべては便宜的なものであり、固定な実体を持つものではありません。(以下、③/⑤につづく)

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※クリックすると拡大してして見られます。


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