2015
11.17

「たてまえ」と「ほんね」の間で ⑤/⑤

Category: 未分類
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 「ありのまま(ありのままの自分)に生きる」というフレーズをよく耳にします。しかし、私の偏見かも知れませんが、これにはどうも「ほんね」で生きるということに固執したイメージがあります。また、どこか利己的な印象があり、他者への意識や配慮に欠けるものを感じます。「ありのままに生きる」ということは、決して、自分の好みや都合だけで生きることではないはずです。
 仏教の重要な教えの一つに『諸法無我(しょほうむががあります。これはこの世のあらゆるものが無限の関係性の中に存在しているということを説いたものです。端的に言うなら、「あなた」に支えられ「わたし」があり、その「わたし」も「あなた」を支えるものとして存在しているということです。結局は、「わたし」も「あなた」も本来は一つだということです(念のため言い添えますが、このときの「あなた」というのは、人間のことだけではなく、生きとし生けるもの全てを指します)。
 「ありのまま」というのは、“その事実のまま”ということではないでしょうか。したがって、「ありのままに生きる」とは、その事実をそのまま認めて生きていくことだと思うのです。それが、「わたし」と「あなた」を統合しながら生ていくことではないかと思うのです。
 「悪魔」というのは、自分の都合だけで生きようとする私…。「天使」というのは、相手の機嫌ばかり気にして生きている私…。どちらも私には違いありません。しかし、これとは別に、その両者を冷静に俯瞰する「もう一人の私(三人目の私)」がいる、そう考えると、現実生活の中で揺らいでばかりいる私のような人間も、救われるような気がするのです。
 「道徳の時間」では、道徳的価値の自覚や自分の生き方についての考えを深めることで「道徳的実践力」を育成することが目指されますが、それは結局、「わたし」は「わたし」であると同時に「あなた」でもあるという真理に目覚めることで醸成される力ではないかと思うのです。そこに、「本当の自分」があり、その自分に随って生きることの中に「本当の自由」があるということです。
 本ブログでよく引用する言葉に「自灯明 法灯明」があります。釈迦がその最期のとき、弟子の阿難尊者に遺した言葉として伝えられているものですが、その意味は、「よく整えられた自分を拠りどころとして生きていく」ということです。私は「道徳の時間」というのは、まさに「自らをよく調え、本当の自分に気づく時間」ではないかと思うのです。それだけにたいへん難しいし、だからこそたいへんやり甲斐もあると思うのです。
 教科化という大きな変革が予想されますが、現場の先生には、これを機として、一層頑張っていただきたいと思うのです。(〆)

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  次回は、「良寛さんの鍋」を掲載(5回配信)します。ぜひご訪問ください。 

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