2015
10.28

『因果一如』⑤/⑤

Category: 未分類

16c.jpg[石田三成]

 少し横道に逸れるかも知れませんが、戦国の武将、石田三成の最期の様子を伝える、たいへん興味深い話があります。
 関ヶ原の合戦で敗軍の将となった石田三成は、山中(古橋村)で捕縛された後、徳川家康の命により六条河原で斬首されますが、その処刑の前、喉が渇いたので警護の者に白湯(さゆ)が欲しいと願い出ます。
 しかし、警護の者からは「白湯はないが柿はある。これを食べよ」と言われます。ところが、三成は「柿は痰の毒であるからいらない」とこれを拒みます。警護の者は「これから首をはねられよう者が自らの体調を気遣ってどうする」と笑いますが、三成は、「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ」と言ったといいます。
  見方によれば、往生際が悪いという批判も可能です。しかし、この三成の最後の生き様に「因果一如」を感じ取ることはできないでしょうか。間もなく処刑され、命を断たれる運命にありながら、三成の態度にそのことへの執らわれはありません。あるのは、今を全力に生きることだけです。この話から察する限り、三成は、その最期に臨んでも「因果一如」を貫いたのだと思います。
 考えてみれば、これは私たち自身にも当てはまることだと思います。三成との違いは、私たちには余命がどれだけあるか分からないだけです。「因果一如」という立ち位置から人生を眺めるなら、
たとえ余命があとわずかであろうと、あるいは数十年あろうと、生きることの意味と重さに変わりはありません。「因果」の統合と“完結”、その瞬間、瞬間の連続にこそ生きることの意味があり、目的があるということです。

 ところで、善行を重ねても、悪果を受ける人がある一方で、世の中にはその逆の場合もあることを私たちは知っています。愚行を重ねながらも富をつかんだり、社会的な地位を得て得意になっているような人もたくさんあります。正直に善を積み、守ろうとし努力している人が馬鹿を見るというような場面もままあるものです。これについてはどのように考えたらよいのでしょうか。
 この問題について、最後に、日本曹洞宗の祖、道元禅師の言葉を紹介して、今回のブログを閉じたいと思います。


 大凡(おおよそ)因果の道理歴然として私なし。造悪の者は墜ち、修善の者はのぼる。悪をつくりながら悪に非ずと思い、悪の報(むくい)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。
(意訳)悪い事をしても悪い結果にならないのは因果律が成り立たないのではなく、悪い事をしている事自体が悪い結果なのである。因果一如とはこのことなのである。 (〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「たてまえとほんね」を掲載(5回配信)します。ぜひご訪問ください。
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