2015
10.24

『因果一如』④/⑤

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 もっとも、こんなふうに考えると、そもそも私たちが何かの「こと」に集中、没頭しているときというのは、すべからくこのような様態なのではないでしょうか。「我」を忘れ、「時間」を忘れて、全身全霊でその「こと」に臨んでいるはずです。そのときに、それまでの経緯やそこから先の見通しなど全く脳裏にないはずです。言ってみれば、「時間のレベル」を超越しています。
 つまりは、「因果一如」というのは、瞬間、瞬間を全力で生き切ることなのではないかと思うのです。
 「因果律」は確かにあります。一切のものは原因があって生じ、原因がなくては何ものも生じません。しかし、仏教の「縁起説」に随うなら、一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立(果)しています。
 したがって、「善因」があっても必ず「善果」がもたらされるわけではありません。これだけ努力したのだから、これだけ頑張ったのだからといって、必ずしも望み通りの結果が得られるわけではありません。努力や頑張りが報われないこともあります。私たちは、そのことをわきまえておかないと、想定外の結果に悩み、苦しむことになります。
 「不昧因果」…因果は逃れられない。これが仏教の根本的な立場ではあります。しかし、これだと最初から決まっている結果を変更できないことになり、「因果律」への執らわれが生じます。また、だからといって「不落因果」…因果は逃れられる、となれば、社会から隔絶した、まるで仙人のような生活を送らなければならなくなります。これでは「無門関」に出てくる野狐と同じことになってしまいます。
 結局のところ、過去のことは変えられず、未来のことはよくわからないという真実に目覚めるということではないでしょうか。そして、目の前の今できることに集中し、ベストを尽くしていく、その瞬間瞬間の「因果」の“完結”を味わうことの大切さを言っているのではないかと思うのです。「因果律」は否定できないけれども、それに執らわれることのない生き方こそ、最善の生き方であるということではないでしょうか。
 先の禅問答「百丈野狐」の僧(狐)は、皮肉にも口では「不落因果」と言いながら、「悟りを開けば、因果から逃れられる…」と、結局は「因果律」に執らわれたことで、野狐にされてしまったのではないでしょうか。(以下⑤/⑤につづく)

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