2015
10.20

『因果一如』③/⑤

Category: 未分類

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 ヒントは、どうも「因果一如(いんがいちにょ)という言葉にあるようです。これは白隠禅師の「坐禅和讃」の中にある言葉です。原文では「因果一如の門開け 無二無三(むにむさん)の道直(みちなお)し」と詠われます。原因と結果は一つであり、「因」と「果」に区別はないということです。「因」が「果」で「果」が「因」であるということでしょう。また、「門開け」というのは、原因と結果の間に壁はなくなり、代わりにそこには互いに通じる門ができるということなのでしょう。そして、「無二無三の道直し」は、それが一本の道となってどこまでも通じているということでしょうか。一体どのようなことなのでしょうか。
 一つには、原因が結果を生み、その結果が原因となって新たな結果を生むということのようにも考えられます。結果もそれで終わりというものではなく、次の原因のもとになります。花は咲き、やがて枯れますが種を残します。そして、その種は、また花を咲かせます。
 また一つには、原因があって結果が生まれるというのではなく、結果はすでに原因の中に含まれているという見方もできます。花の種は、花が咲いたときにすでにそこに蓄えられているということです。

 ただ、白隠禅師禅の説く「因果一如」というのは、これらとはややニュアンスが異なるようです。「因果は逃れられる」わけではなく、かといって「因果は逃れられない」わけでもない…、明らかに矛盾しています。
 そこで、以下、身の程知らずな私見を述べさせていただきたいと思います。
 これは、一瞬のうちに「因」と「果」が統合され“完結”している状態を言ったものではないでしょうか。
 自分自身の体験を交えながら考えてみたいと思います。
  自由な時間が増えたことから、我が家の床ふきをすることが日課になっています。台所や洗面所、トイレ、廊下など、不注意から床を汚すことは多いものです。また、その汚れがスリッパに移り、さらに家中の床に広がってしまうこともあります。そんな様子を見るにつけ、その理由を苦々しい思いで詮索したり、その先に待ち受ける床ふき作業の手間を考えて、憂鬱になることもあります。
 ところが一旦床ふきの作業に入ったときには、それらの思いは全く雲散霧消してしまいます。あるのは、床の汚れとそれを拭き取る道具(雑巾、ウエットティッシュ、スポンジなど)、そして私の肉体だけです。床をきれいにしたいという「因」床が磨かれるという「果」が切れ目なく一つになってどこまでも続いているといったイメージです。
 これが、原因と結果が一瞬のうちに統合され、“完結”している状態です。したがって、その一点においては、過去もなければ未来もありません。(以下④/⑤につづく)

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