2015
10.16

『因果一如』②/⑤

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 「因(いん)」とは原因のこと、「果(が)」とは結果のことです。「種をまいて花が咲いた。」というときの「種をまく」が原因で、「花が咲いた」が結果です。
 しかし、種をまいただけでは花は咲きません。水や日光や肥料などが必要になります。これら原因と結果を結びつけるものが「縁(えん)」です。同じ種類の種(原因)であっても、環境や条件(縁)によっては、同じ花が咲く(結果)とはかぎりません。これが仏教固有の「縁起説」です。

 そこで、『無門関』です。この話に出てくる僧(狐)は、「不落因果」と言って狐にされてしまいます。しかし、それが誤りであったことに気づき、百丈禅師から「不昧因果」と示されたことで、真の悟りを得ます。
 ちなみに「昧」という漢字には「道理にくらい」という意味があることから、「不昧」というのは、「道理にあかるい」様を指したものと言えます。したがって、「不昧因果」というのは、「因果の道理をあきらかなものとして受け止め、その道理に随った生き方をしていくこと」との解釈ができます。平たく言えば「因果は逃れられないと覚悟して生きていく」ということでしょう。
 したがって、この話をストレートに受け止めるなら、禅が目指すのは、因果を逃れて生きることではなく、因果は逃れられないと覚悟して生きていくことにあるということになります。その意味では、仏教の伝統的な立場に符合するものであると言えます。
 ところが、今回の「禅問答」にあっては、どうもこれでは合格点がもらえないようなのです。 西村恵信氏(禅文化研究所長)は、その著書「坐る」で次のように述べています。


 「読者の方は、駄目なのは『不落』と思われたでしょうが、実は『不昧』も駄目だというのが禅では正解です。ではどういえば正解になるか、皆さんも一度坐禅して、よく工夫して見られたらいかがですか」


 簡単に正解を口外したりしないのが「禅問答」の流儀のようで、この場合も、西村氏は体よく私たち読者を突き放しています。私のような凡人には、何とも苦々しいことなのですが、「禅問答」のことでもあり、致し方ありません。ここは、自分なりに考えるしかありません。(以下、③/⑤につづく)

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