2015
09.30

「『観音の力』を念じる」⑤/⑥

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 また、次のような見方もできます。自分に対してかけられる「呪いの言葉」も「毒薬」もすべて受け止める側にあるものです。いつも例に出す「極楽も地獄も己が身にありて、鬼も仏も心なりけり」という古歌もあるように、自分が好ましく思っていなかったことも、見方を変えれば、ありがたいことになる場合があるものです。
 それに、私たちは自分を大切に思うが余り、往々にして必要以上に自分を追い込んだり、逆に、過度に相手を恨んだりすることもあります。しかし、仏教によれば、これらのことは、迷いの心から生じる妄念、妄想に過ぎません。心の持ち方に問題があるということです。
 このように考えると、「還著於本人(げんじゃくおほんにん)というのは、害を受ける側にも当てはまることに気づかされます。観音の力を信じ、身も心も委ねることで、心底から“自分を抜きにする”ということができたなら、それは自分自身も“我に返る”チャンスを得ることにもなるということです。

 このように『観音経』を読んでくると、他の頌で述べられている一見、不可解な文言も別な味わい方ができます。
 次に紹介するのは11番目に登場する頌です。


 ○人を食べ物にする鬼や毒を持った龍、さまざまな悪鬼に遭っても観音の力を念じれば、危害は加えられない。


 何ともおどろおどろしい世界の話のようではありますが、これも心の持ち方の問題に置き換えると、別の世界が見えてきます。高田好胤氏は次ように語っています。


 「羅刹(らせつ:人を食べ物とする鬼)は私たちお互いの心の中に巣くっている煩悩の悪羅刹です。…毒龍というのは、私たちの身・口・意の三業における悪行の毒虫です。…ねたみ、そねみ、恨み、ひがみ、こういう心の働きです。…人がいいことをしているのを見て、褒め称えるのではなく、それをお手伝いするというのではなく、反対に妨害し、それをねたみひがんで、難癖をつけるような心がお互いの心の中に巣くっている。」


  このように、これらの災難を外なる景色として見るのではなく、自分自身の内なる景色として受け止め、「観音菩薩」を念じることで、私たちの醜い心は、浄化され、救済されていくというわけです。それは、私たちの心の奥に眠っている温かく、尊く、清らかな“仏(仏性)”に気づくことでもあります。(以下、⑥/⑥につづく)   
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