2015
09.26

「『観音の力』を念じる」④/⑥

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 「人を呪わば穴二つ」という諺があります。人に害を与えようとすれば、やがて自分も害を受けるようになるという喩えですが、原文の最後にある「還著於本人(げんじゃくおほんにん)」(「還(かえ)りて本人に著(つ)かん)がまさにそれだと思います。平易な言い方をするなら、人に向かって吐いたつもりのつばきも、結局は自分の身にふりかかってくるということでしょう。いわば「自業自得」の理を述べたものと言えます。
 しかし、この文言を見たとき、違和感を覚える読者も多いのではないでしょうか。「観音菩薩」というのは、いやしくも大慈悲心の体現者です。たとえ人を呪い、毒殺しようとするような曲がった心を抱く人間がいたとしても、そういう人を救ってあげることこそが「観音菩薩」の使命であり、存在理由ではないのか…。悪いことをしたからといってひどい目にあわすなどということは、大慈悲心に背くのではないか…。こんな感想もあることでしょう。
 ただし、この場合も、文字通りに受け止めていたのでは、『観音経』の真意は理解できないのだと思います。薬師寺元管長である高田好胤氏は、その著書「『観音経』法話」で、この一文について次のように述べています。
 「『還著於本人』…本人に還るということは、人間の本質としての清らかな一切衆生悉有仏性、あるいは菩提心といわれる清浄心、その本心に立ちかえることです」
 仏教によれば、“衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり”です(白隠禅師の『坐禅和讃』より)。観音の力を念じることによって「本心に立ちかえる」ということは自分の中にある“仏(仏性)”に目覚めことではないでしょうか。言い換えるなら、この世を貫いている「諸行無常」(永遠の転変性)と「諸法無我」(無限の関係性)という宇宙の真理に気づくことで、俯瞰力、達観力、さらには自制心が立ち現れてくるということです。
 ただひたすら観音の力を信じ、それに身も心も委ねていくということは“自分を抜きにする”ことに通じます。それは、我欲、我執にまみれた自分を一旦は「無」にすることでもあります。それが、呪いや害を加えようとする人の心にも通じ、“我に返る”チャンスを与えるということなのでしょう。
 言うまでもありませんが、この場合の“我”は、“仏(仏性)”につながる自分のことです。仏教思想、特有の「性善説」は、こんな所にも色濃く表現されているわけです。(以下、⑤/⑥につづく)

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