2015
09.10

『風流』を考える③/③

Category: 未分類
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 そのときには、耐えられないような事柄であっても、時間が流れ、過ぎ去ってしまえば、何でもないことのように思えることがあります。また、後で冷静になり、よくよく考えみると、自分の勝手や都合だけで事が運ぶものではないと気づくことは多いものです。そして、
 「あのときは、どうしてあんなに心が揺れたのだろうか?」「よく考えれば、大したことではなかったのに…」
などとと思ったりする経験は誰にでもあると思います。それは、私たちが無意識のうちに身につけた“すべては時間が解決してくれる”さらには自分の勝手や都合だけではどうにもならないことがある”という真理につながる高度な気づきでもあると思います。
 このように、「固定点」を持つことで、私たちの心の働きには大きな変化が生まれることになります。それは、現状を全面肯定できるようになるということです。具体的には、「不足」や「苦痛」、「不満」など、「思い通りにならない」ことは「思い通りにならない」こととして無条件に受け入れることができるようになるということでしょう。
 そうなれば、心が揺らいだときにも、
「なんだ、またそんなことになっているのか…。いつもご苦労さんなことだな…」
などと達観できるのだと思うのです。それが「ゆらぎ」を楽しめることに通じるのではないでしょうか。
 ただ、月にかかる黒雲やスネを何かにぶつけたときの傷み程度の“風流”ならまだいいのですが、私たちは、ときとして想定を遙かに超える出来事に遭遇することもあります。先の東日本の震災やそれに伴う原発事故、あるいは予期せぬ水害や火山の噴火などがそれでしょう。また、突然の交通事故や発病などもそれにあたるでしょう。

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 ところが、こんなときにも禅は次のように言います。「不風流処也風流(ふうりゅうならざるところまたふりゅうなり)と。“風流”でないこと(「ゆらぎ」と受け止められなかったことで生じる「ゆらぎ」そのもの)がまた“風流”(新たな楽しむべき「ゆらぎ」)であるということです。
 “やせ我慢もここに至れり”との感もあるのですが、これが“風流”についての禅の立場というわけです。「固定点」が定まり、全面肯定という覚悟が決まると、こんな境地にまでたどり着けるということなのでしょう。なんと大きく自由な発想なのでしょうか。私のような凡人には到達できない境地ではありますが、禅の持つこのようなスケールの大きさ、自由闊達さに心ひかれるのです。
                         
 禅に倣うなら、思い通りにならないことがあったとき、無理矢理にでもそれを“風流”だと意識する習慣を身につけることでしょうか。やせ我慢ではあっても「ああ“風流”だなあ…」とつぶやくように努めたいと思っています。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

次回は「『観音の力』を念じる」を掲載(6回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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