2015
03.06

「『葬式仏教』を考える」④/④

Category: 未分類
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  大乗仏教(日本に伝わった仏教)の根本理念とされるのが「衆生済度(しゅじょうさいど)という理念です。仏法の力により人々を迷いから解放し、その苦悩を取り除くことを意味します。
 多くの宗派で、お経の一番最後に読み上げられる短い経文に、仏教徒が立てる四つの誓いである『四弘誓願文(しぐせいがんもん』がありますが、その最初に出てくるのが「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」です。生きとし生けるもののすべて救うという誓いを立てることです。因みに、二番目が煩悩を断つこと、三番目が仏法を学ぶこと、四番目が仏道を極めることですから、衆生の救済がいかに大きな意味を持っているか分かるかと思います。
 「葬式仏教」などと揶揄や批判にさらされることもある現代の仏教ではありますが、このようにその起源を知るとき、新たな思いが湧いてくるのは私だけでしょうか。「葬式仏教」を「衆生済度」という側面から捉えるとき、そこには仏教の存在理由に関わる深い意義が認められます。私たちは「葬式仏教」ということを誤解していたのかも知れません。
 人の「死」を厳粛なものとして受け止め、「死者」を手厚く供養し、葬るということは、人としての当然の行為です。人が人であるための絶対条件と言ってもいいでしょう。それは、残された者に、命の尊厳を教えると同時に、それを授けたものへの畏敬の念を呼び覚ます契機にもなるはずです。
  このような思いから、以下、身の程もわきまえず、私見を述べさせていただきます。
 仏教関係者は、「葬式仏教」という揶揄や批判に対し、これらのことを踏まえた上で、もっと積極的に反論してもよいのではないでしょうか。もちろん、“釈迦(仏)の教えを伝える”といった本来の仏教の在り方を追求していくことは重要です。今日まで「衆生済度」を第一義として歩んできた仏教が、今後も影響力を持ち、それを維持、拡大させていくためには、その立ち位置を決して見失ってはならないだろうと思います。
 しかし、考えてみれば、“釈迦(仏)の教えを伝える”こと自体が「衆生済度」を目的に行われるものです。その意味では、昨今の「葬式仏教」などという悪し様な言い方に対し、その真義を伝え、誤解を解くように努めることは、本来の仏教の在り方にも合致すると思うのです。
  浅薄な素人意見であることは十分承知しています。読者からのご意見をお待ちします。(〆)

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コメント
考えてみると、自分と同族の死体を特定の場所に埋めるという習慣をもつのは、人間ぐらいでしょうね。

実際の話、人間以外の動物は自分の親兄弟の亡骸があっても、平気でしょうから。

ただ、「だから人間は他の動物よりも上なんだ」という話ではなく、原始時代において死んだ者の亡骸をそのまま放置しておくことで、自分たちの集落に疾病が発生することに気が付いて、それを防ぐために、亡骸を特定の場所に埋めるようになったのが、埋葬の始まりで、その上で故人を偲ぶ習慣が出来て、現代の葬式に繋がっている気がします。

その後も、仏教などについてつらつらと考えながら、いろいろと試験勉強を続けていますが、最近「7つの習慣」のコミック版を読む機会があり、読んでみると実は、この「7つの習慣」という本は「西洋人が西洋人のために書いた仏教書」だと思うようになりました。

もちろん、この本の中には仏教を直接あらわす事柄はなにも書かれていませんが、例えば「パラダイムシフト」、「自分がどのようなものの見方(パラダイム)に縛られて世界を見ているかに気づき、そのパラダイムを克服することが必要だ」という考え方は、そのまま道元の言う「仏道とは自己を学ぶことなり、自己を学ぶとは自己を忘れることなり」ということと同じことだと思います。

つまり、「自己を習う」=「自分のパラダイムを自覚すること」であり、「自己を忘れること」=「パラダイムシフトをすること」になるので。

また、自分が勝つことではなく、お互いに勝つことを考える「WINWINの関係性」はそのまま、「縁起」の考え方だと思ったものです。

なので、この「7つの習慣」を実践していろいろな人と「WINWINの関係」を築くことのできるようなった人は、仏教圏では確実にこう言われることでしょう「あの人は仏様のような人だ」と。

こういうことの積み重ねから、「衆生済度」は実現するのだと思います。

願わくば自分も、自分なりのやり方で「衆生済度」を行うことが出来ればと思っていますが。
我無駄無dot 2015.03.13 16:51 | 編集
あと、今の世界の状況を見てみると、ISILを見ればわかるとおり、「自分のパラダイムに基づく正義」を絶対視してそれ以外をすべて否定してしまうという方向に、動いている気がします。

その先にあるのは、おそらく「修羅地獄」だと思うのですが。

仏教、というよりも儒教を含めた東洋思想の役割は、そういう事態に歯止めをかけて、出来るだけ多くの人と「WINWINの関係性」を作ることにあると思います。

そういう意味で言うと、ビル・ゲイツや故スティーブ・ジョブズ等のセレブ達が「瞑想」を実践しているというのは必ずしも、「世界は悪い方向だけに向かっているわけではない」ということかもしれませんが。

そういえば、じたる様には例の「白、金のドレス」がどう見えましたか?

この「本来は青、黒のドレスが周囲の光の状態で白、金に見える」という話は、世界が白金派と青黒派に二分されたことを見ても、「パラダイム」がどれほど人の価値観や行動に影響を与えているかを、実証する出来事だったと思います。
我無駄無dot 2015.03.13 17:03 | 編集
あと、こちらの方のブログ「プロジェクトマネジメントの話とか」に
「宗教色を配した瞑想について」
http://wiz7.hatenablog.com/entry/2015/01/12/074310

や「7つの習慣」における「パラダイムシフト」や「WINWINの関係」について書かれているので、興味があれば読んでみてください。
http://wiz7.hatenablog.com/entry/2015/02/08/092751

特に、このページに書かれている、グーグルとユーザー相互の「WINWIN」に関する図、「図3:Google AdSenseのインターネット上での実態」は「縁起」そのものだと思います。
http://wiz7.hatenablog.com/entry/2015/03/05/084954


我無駄無dot 2015.03.13 18:25 | 編集
我無駄無様
お久しぶりです。いつもながらていねいなコメント、ありがとうございました。また、興味深い情報までいただき、感謝しております。
 さて、我無駄無様の問いかけに対する答えにはならないかと思いますが、いずれ時を見て、ブログに掲載しようと思っている文章がありますので、それをもって回答に代えさせていただきたいと思います。かみ合っていないかもしれません。

『空』とは
 「諸行無常」と「諸法無我」が一体不二の関係にある有り様
 すべてのことに因があり、縁を得て、果を生む 
 そして、次の瞬間、果は新たな因となり、新たな縁を得て、また新たな果を生み出す
 これが、あらゆる事物・事象に宿命づけられた“永遠の変化”の本質

 すべてが『空』であることから導かれる事実 
 それは、あらゆる事物・事象に実体はないということ
 私たちの“身体(色)”にも実体はないということ
 “身体”で営まれる新陳代謝こそ「諸行無常」と「諸法無我」
 10年前の○山△男の“身体”と現在の○山△男の“身体”は別物 
昨年の○山△男の“身体”と今の○山△男の“身体”も別物
昨日の○山△男の“身体”と今日の○山△男の“身体”も別物

 そして、忘れてはならないこと 
 それは、“心”(受想行識)にも実体がないということ
 心は、感覚器官(眼耳鼻舌身)が外界の事物・事象(六境)に出会うことで生じ、
生じては消える、刹那、刹那の精神作用
「美しい」に実体はない
 「いい音」に実体はない
 「いい匂い」に実体はない
「おいしい」に実体はない
「いい肌触り」に実体はない
こうして、実体のない情報により形成されたのが“私”
 だから“私”にも実体はない

 実体のない“私”は、感覚器官に働きかけ、好き嫌いの篩いにかけながら、
自分に都合のよい情報だけを取り入れる
そうして、ますます実体のない“私”を太らせていく
 実体のない“心”や“私”こそ、妄念・妄想(煩悩)の源泉
妄念・妄想に囚われた“心”や“私”はしだいに暴走をし始め、
高じれば制御不能にも陥る
それは、古人をして、
「心こそ 心惑わす心なれ 心に心 心許すな」と言わしめた“心”と“私”のこと

 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2015.03.15 10:51 | 編集
「実体は無い」これはその通りだと思います。

こちらの記事で、
http://portal.nifty.com/kiji/150314192985_1.htm
例のドレスがどのような条件で、「白、金」見えるかを検証していますが、この記事を見ると、かなり特殊な光の状態でないと、「白と金」には見えなかったようです。

その、たまたま「青と黒のドレスが白と金に見えた瞬間」が写真に収められて、それが原因で世界が二分されていく。

この事実を見ても、「自分たちが見てる世界には実体は無く、ただ認識だけがある」。

あるいは、「これはこうなんだ」というものの見方「パラダイム」だけが存在している。
こう思えます。

だからこそ、他者の「物の見方(パラダイム)」を尊重しながらWINWINの関係性を作ることが、重要でありその積み重ねが、「菩薩行」になり「衆生済度」に繋がるのだと思います。
我無駄無dot 2015.03.15 18:00 | 編集
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