2015
06.30

「耳で見る 目で聞く」②/③

Category: 未分類


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 いつも言うように、私たちが身につけてきたものは、自分の眼で見たこと、自分の耳で聞いたことなど、自らの感覚器官を通して入手した情報以外にありません。そして、それらは、すべて自我(エゴ)の働きによって取捨選択されたものであり、狭く、浅く、偏ったものです。しかし、通常、私たちは、それを正しいと思い込んでしまっています。
 そこで、大燈国師の和歌です。この歌には、自我(エゴ)の働きを停止させる意図があるのではないでしょうか。自我(エゴ)から発するあらゆる予備知識や先入観、偏見を捨て、全身全霊で「雨だれ」に正対し、無心になって、その音を「聞き」、その姿を「見る」、そうすることで、「雨だれ」の本当の姿が見え、本当の音が聞こえてくるということを言っているのではないかと思うのです。
 「雨だれ」の音がするから耳に聞こえる、耳があるからその音が聞こえる、あるいは「雨だれ」があるから眼に見える、眼があるからその姿が見えるといった次元のことではないのだと思います。「雨だれ」も「眼」も「耳」も区別するものはなく、本来は一つだということでしょう。そこに、自我が入り込む余地はありません。そこのところをしっかりと味わうということではないでしょうか。
 また、別の角度から、次のような捉え方もできるかも知れません。
 当然のことながら、眼では聞けません。「眼で聞く」というのは、「眼をつむって感じる」ということではないでしょうか。眼をつむれば、何も見えなくなります。しかし、眼以外の感覚器官は働きます。逆に、眼をつむることによって、他の感覚器官の働きが鋭くなることは、誰もが体験しているのではないでしょうか。
 実際に眼をつむってみると実に様々な音が聞こえてきます。それまで気づかなかった音が聞こえてきます。音だけではありません。香りを感じることできるし、風の動きを感じることもできます。そして、何よりも、自分の周りには、実は眼では見えない大きな世界が広がっていることを感じ取ることができます。それが、「耳で見る」ということではないでしょうか。
「耳に見て 眼に聞くならば 疑わじ おのずからなる 軒の玉水」
 結局、この和歌は、私たちが住む世界には、眼で見たり、耳で聞いたりできないものがあるという事実に目を向けさせようとしているのではないかと思うのです。(以下、③/③につづく)

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