2015
06.26

「耳で見る 目で聞く」①/③

Category: 未分類
EPSON022.jpg [大燈国師]

 京都・大徳寺の開山である大燈国師(だいとうこくし)の読んだ和歌に、興味深いものがあります。
「耳に見て 眼に聞くならば 疑わじ おのずからなる 軒(のき)の玉水」
 ちなみに、「軒の玉水」というのは、軒からこぼれ落ちる「雨だれ」のことです。それを「耳で見る…、眼で聞く…」ということですから、大燈国師は、「眼」と「耳」を間違えて詠んだのではないか、こんな疑念を抱く読者があるかも知れません。凡人の常識では考えられない境地です。
 この和歌には、耳で見て、眼で聞くことができなければ本当の「雨だれ」を見たことにならない…。耳で見て、目で聞くことができるなら、「雨だれ」も本当の「雨だれ」になり、さらには、自分自身が「雨だれ」になる…、こんな意味が込められているようです。
 まったく首をかしげたくなるような和歌ではありますが、大燈国師[宗峰妙超禅師]は、日本の臨済宗諸派の法系上の源流として尊崇される「応燈関(おうとうかん」の系譜を成した高僧の一人で、稀代の傑物と評される禅僧です。その境地など、私のような凡人にはとても計り知ることなどできないのは当然でしょう。
 しかし、今回、身のほど知らずにもこの和歌の意味するところについて考えてみたいと思います。例によって、独りよがりな思索であることをお断りしておきます。
 この和歌は「眼で見る」、「耳で聞く」ということの限界に言及したものではないかと思うのです。俗に、「聞いて聞こえず 見て見えず」という諺もあるように、私たちは、関心のあることには眼を光らせ、耳をそばだてますが、関心のないことには、概して無頓着です。見ているようで見えていない…、聞いているようで聞こえていない…、こんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。いわゆる「心ここに在らず」という状況が作り出す有り様です。
 また、好ましいこと、都合のよいことは受け入れますが、嫌なこと、都合の悪いことは避けようとする厄介な性質もあります。とりわけ、眼に見えるものへの関心は旺盛で、執着心も強いのに、眼に見えないものに対しては無関心であったり、信じようとしなかったりする傾向が強いものです。(以下、②/③につづく)

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