2016
03.16

「心を始末する」⑤/⑤

Category: 未分類

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 ところで、「自己の発見」ということで言うなら、それは禅にあっても大きな課題です。いわゆる「己事究明(こじきゅうめいです。戸籍上の自分の他に存在する「もう一人の自分」を追求していくことです。自分をすべてを否定した後で立ち現れてくる「新しい自分」に気づくことと言い換えることもできます。「新しい自分」というのは、掴んで得たものをすべて捨て去った、いわば裸の自分(与えられたままの自分)であり、万物との無限の関係性の中で「生かされている自分」でもあります。この事実に目覚めるなら、私たちは人間としての謙虚さを正常に保てるのだろうと思います。
 しかし、繰り返しになりますが、それは神秀が捉えた世界とは別次元にある世界での話です。「無」あるいは「空」という、一切の二元対立を超えた世界に身を置き、そこから現実を眺めたとき見えてくるもの、それこそが、『心のためにはせ使われ、安きときあるものなし』という私たちの有り様なのだと思うのです。そして、そのような見方、考え方から芽生えてくるのが、俯瞰力であり、達観力であり、ひいては自制する力なのだろうと思うのです。

 最後に、蛇足になるかも知れませんが、臨済宗の開祖、臨済義玄(りんざいぎげん)禅師が心についてどのように捉えているかを紹介したいと思います。因みに、臨済は、法脈からすると慧能から数えて5代目の弟子に当たります。


 「心法(しんぽう)形無うして、十方に通貫す。眼に在っては見ると曰(い)い、耳に在っては聞くと曰い、鼻に在っては香りを嗅ぎ、口にあっては談論し、手に在っては執捉(しっしゃく)し、足にあっては運奔(うんぽん)す。」(「臨済録」示衆より)


 「心法」というのは、心の決まり、つまり心の働きのことです。そして、それには形がないということです。ところが、形はなくても、「十方(東西南北と四維、上下)」、つまり、宇宙全体を貫いており、眼や耳、鼻、口、手、足等の働きとなって現出しているというわけです。
 「本来、心は無い」と言っておきながら、人間の身体を含む、宇宙全体に充ち満ちていると言っているわけですから、頭をかしげたくなるような内容ではありますが、これが、禅が説く「絶対無(ぜったいむ)という思想です。「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞうという有名な禅語も、ここから生まれてきたのだと思います。つまり、何もないところに、無限に尽きないものがあるというわけです。
 このように禅の思想は、一見すると大きな矛盾を抱えているように見えます。しかし、これが禅の世界観であり、宇宙観なのです。まさに、次元が違うとしか言いようがありません。しかし、私は、そこに魅力を感じるのです。
 こんなことだから、いつまで経っても「心の始末」ができないのでしょうか。(〆)

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