2016
03.12

「心を始末する」④/⑤

Category: 未分類

kumo.jpg

では、心がないというのはどういうことなのでしょうか?
 身体についての見方から類推するところ、本来、身体そのものがないというわけですから、心もないというのは当然の帰結とも言えます。時空を超えた世界には、私たちを苦しめる煩悩も生じないということになるのだと思います。
 ただし、誤解のないように申し添えますが、これはあくまでも「本来は…」ということです。言い換えるなら「悟りの世界」での人間の有り様を述べたものです。したがって、現実の世界の中における心の存在や心の働きまでを否定するものではないということです。
 仏教には「六道輪廻(ろくどうりんねというの思想があります。「六道」とは「天上道」「人間道」「阿修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の六つの道です。人間の心は、この六つの「迷いの道」をぐるぐると廻っているという考え方です。「迷いの道」とは、驕り、高ぶり、貪り、怒り、怠けなどの心に囚われ、引きづられ、本能の赴くままに生きることです。
 「六道輪廻」などと言うと、とかく死後の世界、つまり「あの世」のことのように思われがちですが、決してそうではありません。今、現実に「この世」に生きている私たちの心の状態(「念」とも言う)でもあります。私たちの心は、周囲の様々な条件(「縁」とも言う)に左右されながら、日々刻々、常にこの六つの迷いの道を巡り巡っているというわけです。
 私見ではありますが、神秀が言及した心というのは、この次元にある心だったのではないでしょうか。そして、私たちが「始末できていない心」というのも、この辺りにある心のことではないでしょうか。結局、凡夫である私たちは、この近辺でウロウロするしかないのかも知れません。
 法話の終盤で、講師さんから、「念仏とは、自己を発見することである」という言葉がありました。“人間は自分の都合(便利さ快適さ等)を最優先させて生きている…、善良な人間であっても、立場や状況が変われば悪に手を染めることもある…”というお話の後に続けられた言葉でした。「阿弥陀仏」との関係性を深め、このような心の性質を気づく(目覚める)ことが、「心を始末する」ための方策であり、それが心を煩悩や妄想の塵や埃で汚さないことに通じるというメッセージだと受け止めました。
 一般に、「仏」のような時空を超えた大きな存在を意識することで、人間は謙虚になれます。それが「客観力」や「俯瞰力」「達観力」さらには「自制力」として働き出すとき、私たちは「心の始末」に向かえるのではないでしょうか。(以下、⑤/⑤につづく) 

44-8  
※クリックすると拡大して見られます。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/383-b7e42a85
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top