2016
03.08

「心を始末する」③/⑤

Category: 未分類
original.jpg 

 「本来無一物」という一語が、大きな分かれ目になったわけです。これは、読んで字のごとく、「本来、何も無い」状態であることを意味します。「悟りの世界」である分別や相対的な観念をいっさい挟まない世界に、身体や心はもとより、塵や埃もないということを詠んだものです。何事にもとらわれない、「空」や「無」という時空を超えたところでは、煩悩や妄想の起きようもないということをなのでしょう。となると、先の「心の始末」の問題はどうなるのでしょうか?
 私見ではありますが、結局、慧能の詠んだ世界と神秀の詠んだ世界では、次元が違うのだと思います。
 神秀の詠んだ世界も、それはそれでよく理解できます。まず、身体は心を宿す本体であり、大切にすべきものであると述べています。したがって、そこに宿る生まれながらにして清浄な心を煩悩や妄想の塵や埃で汚さないように努めることは、安楽に生きていくための必要条件と言えるでしょう。そのことに少しの誤りもないと思います。その意味では、神秀は「心の始末」のことを問題にしていると言えます。
 これに対して慧能の偈です。慧能は、身体はもとより、心そのものを「無い」と言っています。どのようなことなのでしょうか。
 まず、身体がないということについてです。
 私たちは、ふだん手や足など、身体が自分のものであることに何の疑いも抱きません。自分の身体は、全て自分のものだと思ってます。しかし、それは私たちが健康であるということが大前提です。健康でさえあれば、身体は、私たちの意思通りに動いてくれます。ところが一端、健康を損ねると(怪我も含みますが)、その自由を奪われてしまいます。
 私たちの身体は、「生(動)」と「死(止)」のせめぎ合いの中にあります。「生(動)」のエネルギーが上回っているとき、体は自由に動いてくれるために、自分のものになっているように考えていますが、「死(止)」のエネルギーが上回われば、体は自由にならず、自分のものでなくなります。
 私たちは、その力の及ばないところで働いている大きな力を得て今を生きています。その意味では、私たちの身体の中で、「わたし」のものと言えるものは何一つありません。全ては、いわば借り物です。いずれは元の場所へ返さなければなりません。
 加えて、私たちの身体は、日々刻々と更新(新陳代謝)され続けており、一瞬たりとも停滞することはありません。どの瞬間を捉えて身体と呼ぶのかとの疑問も湧いてきます。(以下、④/⑤につづく)
 
 44-7
※クリックすると拡大して見られます。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/382-fe7ba3ed
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top