2016
02.29

「心を始末する」①/⑤

Category: 未分類
おもい 

 いつもお邪魔するの寺院(浄土真宗)で、法話を聴く機会に恵まれました。今回は、冒頭で『心のためにはせ使われて、安きときあるものなし』という言葉が紹介されました。『心のためにはせ使われる』とは、どのようなことをいうのでしょうか。
 面白い例が示されました。結婚した女性の“里帰り”についての話でした。義母曰く「うちの嫁は里帰りが多くて困りものだ」と。これに対して、実母曰く「私の娘はよくうちに帰ってきてくれて親孝行者だ」と。
 また、以前、本ブログでも掲載したことのある、小学生の書いた「運動場」という短い詩も紹介されました。
 せまいせまいなといって / みんなが遊んでる。
 朝会のとき石を拾わされたら / 広い広いなといって拾っていた。
 一つの事実でも、立場や状況の違いによって受け止めが全く異なるという、しごく当然の話ではありました。
 夏になれば「暑いから、早く冬が来てくれないか」と言い、冬になれば「寒いから、早く夏が来て欲しい」と言う。ことほど左様に、私たち凡夫はいつも勝手気ままです。自己の都合を最優先させるからでしょう。自分を中心にして物事を区分し、自分にとって心地よく、都合のよいことだけを受け入れ、そうでないものを遠ざけようとする心が働くからでしょう。
 私たちのそんな様子を評して、講師さんは「心の始末」ができていないと断罪されました。『安きときあるものなし』というのは、そのような心が大手を振って歩いているから、いつまで経っても心は安まらず、苦悩がなくならないということなのだろうと思います。
 いつも例に出す沢庵(たくあん)禅師の道歌、「心こそ 心惑わす心なれ 心に心 心許すな」も、心のそんな状態を詠んだものだと思います。心こそが自分を迷わすものであるから、自分の心の動きにくれぐれも気を許すなということです。「心の始末」とは、このような心の持つ性質をしっかりと理解し、それを正しく制御していくことなのだろうと受け止めました。
 ところで、禅では心の問題をどのように捉えているのでしょう?
 禅は、別名を「仏心宗(ぶっしんしゅう)」とも呼ばれているように、心とは何かということを基本的な課題としています。そして、古来から様々な見方が示されてきました。
 中国禅の本流を築いた慧能(えのう)禅師(以下、慧能とします)にまつわる有名な話があります。(以下、②/⑤につづく) 

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