2015
03.30

「天上天下唯我独尊」③/③

Category: 未分類

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 「唯我独尊」の「我」に、釈迦本人の意味はありません。個々の人間を代表したものが「我」です。したがって、その意味は、一人一人が、それぞれにこの世の中で最も尊い存在であるということを述べたものです。つまり、一人一人が誰にも代わることのできない、かけがいのない存在として生まれてきているのだから、そのままで最高に尊いものであるということです。したがって、努々(ゆめゆめ)、「自分が一番えらい」というような、うぬぼれの意味で使ってはならないということです。
 嬰児(みどりご)の釈迦が語った言葉とされていることに意味があるのだと思います。当然のことながら、生まれたばかりの赤ん坊に、地位や名誉、功績、財産、学問など何もありません。また、それらに何の意味もありません。人間は、誰も、それらの指標を超えて生まれてきます。そのことが最も尊いということだと思います。その自分こそが、「本当のあなた」(言い換えるなら「本当の自分」ではないでしょうか。
 現実の世界では、何事にもとかく優劣をつけ、他人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に陥ってしまいがちなのが私たちです。しかし、この世にただ一つ、かけがえのない「本当のあなた(自分)」という存在があるということに目覚めるなら、他人と比較して劣っているなどとして傷つく必要などないということです。また、同時に、他人より優れているなどといって、驕り高ぶることもなくなるはずです。
 『仏教聖典』(仏教伝道教会編)の中に次のような一節がありました。
 「煩悩の塵に包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に入れると四角くなる、しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。
 ところが、すべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。善し悪しと見、好むと好まないと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。」
(首楞厳経)
   
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 「本来の水」と「器に入れられた水」…。考えさせられるの喩えだと思います。私たちが自己紹介と称して、得意げに自らの情報を開示しているとき、それは、まさに「水の形のみ」にとらわれている姿であるということでしょう。そして、その情報は、さしずめ「善し悪しと見、好き嫌いと考え、その考えに使われ、その見方に縛られたもの」ばかりと言えるのだと思います。「本来の水」は、別のところにあるということです。
 自己紹介できない「あなた(自分)」こそが、大切な「本当のあなた(自分)」であり、誰もが、生まれながらに持っている清浄な「あなた(自分)である…。不謹慎かとは思いますが、この一点においては、釈迦も私たちも変わらないと思うのです。そして、こんな思いに立ち至るとき、とこか心が軽くなり、自由になるように感じるのです。
 蛇足ですが、今後、自己紹介を求められたら、「今日は、よい天気ですね」とでも言っておいて、その後は、何も語らないようにしようと思うのですが、読者は、真似をされませんように…。 (〆)

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