2015
02.18

「オズの魔法使い」を考える③/③

Category: 未分類

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 映画の中で、主人公のドロシーは、虹の彼方のどこかに、よりよい場所があると夢見ていました。しかし、最後には、故郷のカンザスが一番の場所であったことに気づきます。そのときの台詞が、冒頭で記した“There  is  no  place  like   home”でした。つまり、彼女にとって、文字どおり「我が家ほどいいところは他になかった」というわけです。
 一方、同行した知恵がないかかし、心を持たないブリキ男、臆病なライオンも、自分たちにないもの求めて旅を続けますが、最終的には、それらがすでに自分に備わっていたことに気づきます。 
  思えば、彼らの努力は、「水の中にいて 渇を叫ぶが如く」ようなのものであったかも知れません。実は、スタートがゴールであったのですから…。
 しかし、それは困難を乗り越えたからこそ得られた貴重な真理でもありました。この映画の発している重要なメッセージは、ここにあるのだと思います。
 これを仏教的な視点から眺めるなら、よりよい場所を求めたドロシーの心そのものが、「我が家ほどいいところは他にない」と気づいた心でもあったということになります。かかし、ブリキ男、ライオンの場合も同様です。自分にないものを求める心が、それらがすでに備わっていたことに気づく心でもあったのです。仏を求めようとする心そのものが仏であるということです。
  仏教には「煩悩即菩提」という言葉があります。「煩悩」と「菩提(悟りを開き仏になること)」とは同じものだということです。「煩悩」というのは、私たち凡夫の心身を煩わせ、悩ませる迷いです。それが、仏になることと同じというのは、どのようなことなのでしょうか。
 くどい説明は不要かと思います。ドロシーの願い、そして、かかし、ブリキ男、ライオンの願いは「煩悩」に他なりません。そして、その「煩悩」がエネルギーとなって、「菩提」、つまり大切なものは、遠い先にあるのではなく、実は最も近いところにあったという深い自覚に結びついたということです。
 「衆生近くを知らずして 遠く求むるはかなさよ」。この二句こそは、仏を外に求めるのではなく、それを自分の内側に求めていくことにこそ、人間としての本道があるという、禅の立場を述べたものだと思います。

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 それにしても、映画「オズの魔法使い」が、今から70年以上も前に作られたものであることには驚かされます。カンザスでの話をモノクロで描き、オズの国での話をテクニカラーで描くという斬新な演出も光ります。また、映画の中、主人公のドロシーが歌う楽曲「虹の彼方に」も、美しく、たいへん魅力的です。加えて、太平洋戦争勃発直前の時期、このような映画を作成する風土がアメリカにあったということも注目に値すると思います。
 自らの心の内側を見つめることの大切さを伝えようとしたこの作品の精神は、いつまで経っても、色あせることはないのではないでしょうか。
 さらに、それが白隠禅師の「坐禅和讃」の中に込められた精神と酷似していることに、私は大きな関心を抱かずにはいられません。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「葬式仏教を考える」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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コメント
主人公が三人のお供を連れて旅をする話は、いろいろとありますね。

西遊記もそうですし、桃太郎もそう。
また、昔懐かしい水戸黄門も黄門様が介さん格さん、うっかり八兵衛をつれて旅をしますし。

水戸黄門はともかくとしても、桃太郎も西遊記もやはり貪・瞋・癡をいかに抑えて生きていくかを描いているのでしょうが。

それで、竜巻に飛ばされた黄門一行が三蔵一行の代わりに、天竺に行ったり、竜巻に飛ばされたドロシー一行が魔法の国ではなく、桃太郎の代わりに鬼退治をする話を書くと、面白いのではないかと思ったものです。

結局、人は、自分の手の中にあるものに、中々気がつかない。

あるいは、自分の背中は見ることが出来ない。こういうことなのでしょう。
我無駄無dot 2015.03.15 18:56 | 編集
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