2015
02.14

「オズの魔法使い」を考える②/③

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4b3292a4.jpg [白隠禅師像](松陰寺蔵)

 ところで、江戸時代に活躍した白隠禅師(はくいんぜんじ)の作になる「坐禅和讃」(ざぜんわさん)という短い和語で記された歌があります。何でも、仏教の話に結びつけてしまう悪い癖をお詫びしなければいけませんが、私は、和讃の中のある四句が、映画「オズの魔法使い」の発するメッセージと二重写しになってくるのです。
 和讃では、冒頭の「衆生本来仏なり」に続けて、「衆生近くを知らずして 遠く求むるはかなさよ 例えば水の中にいて 渇を叫ぶが如くなり」と詠われます。
 人間を含め、生きとし生けるものはすべからく仏である(あるいは、仏性を備えている)。ところが、そのことに気づかず、仏が遠くにあるもののように勘違いをして、自分の外ばかりにそれを求めようとするのは誠に空しいことである。その様子は、水の中にいながら、水が欲しいと叫んでいるようなものである…。概ね、こんな意味になります。
 「明珠(みょうしゅ)、手にあり」という禅語もあると聞きました。素晴らしい珠は、求めなくても、すでに手の中にあるという意味です。この場合の珠が、仏(あるいは、仏性)を指していることはいうまでもありません。
 そんなことを言うと、もともと仏なら、初めから何もする必要がないではないかとの声も聞こえてきそうです。しかし、それは違います。何もしないで、それでよしと高を括ってしまう有り様を「自然外道(じねんげどう)」と言うのだそうです。何もせず、自然のままに任せておいて、それで自分は仏であるなどといい気になっているのは、仏道から外れた救いようのない独りよがりだということです。
 仏は確かに自分の中にある。しかし、それを探し求める努力をしない限りは、気づくことができない…。これが、この四句の本意なのだと思います(このことについては、本ブログ「衆生本来仏なり」〈2014.4.16~4.28〉でも触れていますのでご参照いただければ幸いです)。
 映画の中では、ドロシーがオズの魔法使いに会うために、かかし、ブリキ男、ライオンとともに、苦労しながら旅する様子が克明に描かれていますが、その姿こそがそのことを表しているのではないでしょか。(以下③/③につづく)
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※クリックすると拡大して見られます。

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