2014
07.25

「お経で健康になる」①/③

Category: 未分類
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 複数の友人と、定期的に座談会をしています。互いに簡単な近況報告した後、一つのテーマに沿って話し合いをしますが、決して堅苦しいものではありません。「私のやりがい」「私のこだわり」など、話しやすくなるよう、身近な問題をテーマにするようにしています。
 その日のテーマは、「私の健康法」でした。ふだんから不養生で、特別な健康法など実践していない私にとって、このテーマには正直なところ困りました。披瀝するような、めぼしい事柄が何もありません。
 そんなとき、思い出したのが、あるお寺で拝聴した法話でした。それは、「健康」の語源は、「健体康心」にあるというお話でした。体が健やかで、心が安らか(康らか)であることが、本当の健康であり、「貪瞋痴(とんじんち)」から抜けられない凡夫は、誰もが心を病んでいるという主旨の、まことに身につまされるお話でした。
 体の健康については理解できますが、心が健康であるというのはどのようなことなのでしょうか。
 これまでも繰り返し述べてきたように、私たち凡夫の心身を煩わせ、悩ませる迷いが煩悩ですが、その代表が「貪瞋痴(むさぼる心、いかる心、おろかな心)」です。それらは、「自分(自分だけ)が可愛い」という思いから生じる、狭く偏った心の働きです。凡夫が病んでいる心というのは、このような心のことだと思います。心が安らか(康らか)である状態とは、このような心の偏りから解放されることをいうのでしょう。
 そこで、私の健康法ですが、今回の座談会では、心の健康法に焦点を当てて話題提供しました。具体的には、朝の読誦(どくじゅ)です。読誦というのは、経文を空(そら)で、声を出して読むことです。読経(どきょう)も同意です。我が家の仏壇の前で、日課にしています。
 ただし、誤解のないように申し添えておきますが、読誦は、本来、生者(衆生)のために行うもの、死者のためのものではありません。経典というものは、もともと、釈迦が人々を救済するために語った言葉をまとめたものです。釈迦の死後も、さまざまな経典が編纂されましたが、それらは、すべて釈迦の言葉を基にしたものであり、すべて生者に向けられたメッセージです。
 余談ですが、その意味では、葬儀や法要などの折、僧侶は、本来、祭壇の仏像や仏画、位牌やではなくて、参列者に向けて読誦すべきなのだと思います。(以下、②/③につづく)
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※クリックすると拡大して見られます。
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