2014
10.05

「喫茶去」(お茶でも召し上がれ)③/③

Category: 未分類
t,12 

 そして、さらに一つ、私的な解釈を追加させていただくなら、人間の持つ本来の感覚を大切にしなさいというメッセージです。
 お茶を飲んだ後に、どんな味がするのでしょうか。そのときお茶の味がすれば、それが素晴らしいことなのではないかということです。いえ、それ以上のことはないのではないと思うのです。
 慧能(えのう)禅師は「本来無一物ほんらいむいちもつ)」と言いましたが、もし自分の心の中に「一物」、つまり、わだかまりやこだわり、たくらみなどがあったとしたら、お茶の味はどうなるでしょうか。美味しいはずのお茶の味も、美味しいと感じないかも知れません。あるいは、お茶の味がしないかも知れません。ときには、何を飲んだか分からないようなことすらあるでしょう。
 ことほど左様に、人間の感覚は、その時々の心の有り様に影響されることがあります。それは、視覚、聴覚、臭覚、触覚など、他の感覚の場合にも当てはまるものだと思います。「無心」にお茶を飲み味わっているときが、一番、美味しくお茶をいただけるときであり、最も幸せで、尊いときだと思うのです。
 もっとも、こんなふうに考えれば、そんな場面は日常生活のどこにでもあるのではないでしょうか。何気ないことでも「無心」にその「こと」にあたり、その「こと」と一つになるっているとき、私たちの諸感覚は最高の状態にあり、最も充実した時間を過ごしているということです。
 趙州禅師からお叱りがあることは承知の上で、この話の後の展開を創作してみました。「喫茶去(茶でも一服おあがりなさい。)」の後のやりとりです。
 禅師は僧に問います。
 「ところで、どんな味がしたかね?」
 僧が答えます。
 「お茶の味がしました。」
 禅師は、笑顔で言います。
 「それは結構。」
 少し飛躍するかも知れませんが、これが、江戸時代に活躍した傑僧、白隠(はくいん)禅師がその『坐禅和讃』の中で詠う「当処(とうしょ)すなわち蓮華国(れんげこく)その身すなわち 仏なり」ということなのではないでしょうか。つまり、禅の思想によれば、蓮華国(極楽)も仏も、決して死後の世界のことではなく、現実の世界の中にあるということです。私は、この考え方に大きな共感を覚えるのです。
 あまり難しいことは考えず、これからも毎日、我流で抹茶を点て、いただきたいと思っています。(〆)

IMG_4580.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。

次回は、『猫を斬り捨てる』を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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コメント
じ・た・る様。
お久しぶりです。

この 「喫茶去」というのは、趙州和尚が初めて来た僧侶にも、再び来た僧にも、いつもそばにいる院主さんにも「お茶を飲んで行きなさい」と言ったお話ですね。

このお話は、文字通り「相対差別をしないこと」を物語ります。

とはいえ、日々の暮らしは「相対差別」の連続です。

しかし、今日あることに気がつきました。
それは、「雨は雨雲の下にしか降らない」という当たり前のことです。
つまり、「晴れた」、「曇った」、「雨が降った」が問われるのは、あくまでも雨雲の下でしかないということで、雨雲の上に出てしまえば、そこには常に「蒼穹」が広がっているということです。
趙州和尚はそういう世界に達しているのでしょう。

それで、私事になりますが、今日また資格試験の受験日でした。

自分は法律系の資格をいくつか連続して受験するということを5年間続けています。

で、ずっと不合格が続いてるのですが。ちなみに今日は宅建の受験でした。

で、不合格の理由や、何度模擬試験などをしても合格点が取れないので、その理由が分からず、いろいろとぐるぐる回る日々を過ごしていたのですよ。
で、今日の結果は不合格です。

ですが、試験中もいろいろと考えているうちに、あることに気づきました。

それは、こういう試験は「1日」しかないということです。

つまり、その当日までどんなに苦しい思いをしても、その翌日からはその苦しみは「関係ない」ということです。

それに気がついた瞬間、何かが吹っ飛んだ感じがしました。

多分、「心身脱落」したのでしょう。

先日、ひろさちやさんの「新訳正法眼蔵」を買い、また中村勘太郎さん主演の映画「禅」も見ているので、道元が「心身脱落」を重視してたことは理解していました。

とはいえ、それが実際にどういうものなのかは、やはり分からないというのが、実感です。

ですが、それは、例えて言えば、「トンネルを苦しみながら掘り進むうちに、掘る土がなくなった」ようなものでしょう。

つまり、「トンネルが貫通して、掘る土がなくなった状態が心身脱落なのだ」と。

これも、「分厚い雨雲を、突き抜けて上昇した先に青空があった」ということだと思います。

まあ、試験の結果を考えると、残念ですが、それ以上に今日は、目が覚めるような良い一日でした。
我無駄無dot 2014.10.19 19:57 | 編集
多分、「仏性」には「関係のある仏性」と「関係のない仏性」という、二つのものがあるのでしょう。

といっても、この二つが別々にあるのではなく、この二つは表裏一体で一つに結びついているわけですが。

例えば、千円札の表に野口英世の肖像が描かれていれば、その裏側に富士山が描かれているように。

そして、そのどちらを見るかは人の立ち位置の違いによって異なってきます。

ちょうど、雨雲よりも上にいるか下にいるかで、「晴、雨」「乾く、濡れる」という「相対差別」の中にいるかいないかが別れるように。

そして、同じ人でも、「相対差別」の中にいればそれは「私」なのであり「相対差別」から「無関係」の立場になれば、その状態が「仏」なのだと。

道元が大悟を得たのは、自分以外の僧が如淨禅師に「たただひたすら座るべき座禅の時にただひたすら居眠りするとは何事か」と叱責されていたさなかでした。

多分、道元はその僧侶が如淨禅師に叱られているときに、こう考えいたのでしょう「自分には関係のないことだ」と。

そして、道元はさらにこう考えたのだと思います。「人が相対差別の苦しみの中に生きるのは、様々な物のとの間に「関係」を持つからだ」と。ちょうど件の僧侶が、如淨禅師との間に「叱られる」という「関係」を築いているから、「苦しんでいる」ように。

そして、その苦しみは如淨禅師に叱られていない自分には「関係ない」ことだと。

その瞬間に、「心身脱落」の意味に気がついたのだと思います。

つまり、心身脱落とは「関係」という鎖から解き放たれ、「無関係」になることで、苦しみの連鎖から解脱することなのだと、気がついたのだと思います。

仏教は全てを「関係」の中で捉えようとします。
これは、裏を返せば全ての物事を「関係性」という鎖で雁字搦めに縛るのが仏教であるということです。

そして、その関係性の鎖に縛られることで、「相対差別」が生み出され、愛別離苦の苦しみも生み出される。

ならば、「無関係」になってしまえば、そこには相対差別も、愛別離苦もありません。

それが、道元の悟りだったのだと思います。
そう、「そんなの関係ーねー、ハイオッパッピー」これが、悟りの呪文だったのです。
我無駄無dot 2014.10.20 07:51 | 編集
我無駄無様
 お久しぶりです。コメントをありがとうございました。
一身上の事柄について、赤裸々なご報告をいただき、我無駄無様が、現在、置かれている状況がよく理解できました。
 それにしても、厳しい資格試験への挑戦を通して、「目が覚めるような良い一日」という境地にたどり着かれたとのこと、たいへん頼もしくも、また、ふだん平凡な生活に明け暮れている我が身からすると、うらやましくも受け止めさせていただきました。まさに、白隠禅師坐禅和讃の「寂滅現前」を体現されたというところではないでしょうか。
 「煩悩即菩提」という言葉がありますが、まさしく「煩悩」と「菩提」とは表裏一体のものだと思います。「煩悩」によって「菩提」が導かれ、「菩提」が得られた瞬間に「煩悩」が消え、同時に「菩提」も意味を持たないものとなります。これが、道元の体得した「身心脱落」という境地ではないでしょうか。「廓然無聖」も同じ境地だと思います。
 ただ、我々凡夫の「煩悩」は無尽です。「煩悩」により「六道輪廻」する心と「菩提」を求める心の二つを持ち合わせながら、いかに楽に、自由に生きていくのか課題なのだと思います。
 何でも、禅によれば、揺れ動く心を楽しむことを“風流”と呼ぶのだそうです。それには「諸行無常」と「諸法無我」という釈迦の説いた普遍的な真理を「固定点」として、ものを見、考える練習を積み重ねることなのでしょうね。
 その意味では、我無駄無様の今回の体験は、意義深いものなのではないでしょうか。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.10.21 18:40 | 編集
じ・た・る様
以前テレビで見た狂言に「東西迷」というものがあります。

このお話はあるお坊さんが、大切な檀家の法要と、自分が招かれたお坊さんの仲間の宴会が、同じ日であったため、どちらに行くか迷いに迷って、結局一日を無駄にしてしまうというものです。

それで、夕方近くになって、とりあえず法要に行ったところ「他のお坊さんに頼んで済ませました」と言われ、宴会に行くと「もう終わりました」と言われて、とぼとぼと自分のお寺に帰るわけです。

そして、夜、これから寝ようとするわけですが、そこから先がこの狂言の「本来の面目」になります。

というのも、普通迷ってしまっために一日を棒に振ってしまったら、「なんて今日はついてない日なんだろう」と思うでしょう。

ですが、そのお坊さんはこういうわけです「今日は一日迷ってばかりで日が暮れてしまったが、何やら面白うて良い一日であった」と。

普通だったら、拒絶するような体験を丸ごと肯定して一日を終わる。どうすればそういう心境に達することができるものか、と、その時は思ったものです。

また、「廓然無聖」も「心身脱落」も仰る通りで同じことだと思います。

要は、迷いの雲を抜けてその先に青空があった。こういうことでしょう。

また、人の生は相対するものの間で常に揺れ動くものだと思います。

そんな中で、苦しんだり迷ったり、考え込んだりする。

そして、そういう時は、「自分」がその苦しみや迷いになりきっているのだと思います。

そして、それは何かと深い関係を持つことで、そのような状態になっていく。

その何かとの関係が、何かの拍子に断たれればその瞬間、悩みや苦しみの原因が無くなるので、自分そのものになっていた、苦しみ迷い、悩みが吹っ飛んでいく。

その瞬間を身体感覚から表現したのが「心身脱落」なのでしょう。

また、「私」と「仏」の違いについて、考えたのですが、この二つは漢字のつくりを見ると、偏(へん)が違うだけで旁(つくり)は同じ「ム」です。

そこから考えたことなのですが、文字の由来を考えずに偏の字面だけを見ると、人偏が人が普通に立っている状態だとすると、禾(のぎ偏)は人が両腕をバタバタ振っている状態になるのだと思います。

つまり、相対差別の中で揺れ動き、じたばたして迷ったり考え込んだりする。それが「私」なのであり、たとえ一時的でも「そんなのカンケーねー」といって、自分の身の回りで起こる事象から「無関係」になることで、揺らぐことのない境涯である「仏」へと変わっていく。

そして、その「仏」のレベルが上がっていけば、何があっても「今日は面白うてよい一日であった」。こう言って眠りにつくことができるのではないかと、思ったものです。

それと、以前玄侑宋久さんの本で、「禅寺のお坊さんは膝をぶつけたときに、「痛い」という前に「風流」というのだ」という話を読んだことがあります。

当然、ぶつければ痛いわけですが、「「痛い」と言って、膝をぶつけた出来事を否定する前に「風流」といってしまえば、「痛い」という「苦」を受け流すことができる。」と。

それと、仏教で言う「無と有」は「物理的に何かがあるかないか」というよりも、「関係があるかないか」それを問うているのだと思います。

そして、全ての物事と「無関係」になった状態が「空」なのだと。

実際の話、人は自分と関係のない物事に対しては、目の前で何が起こっても、見て見ぬふりが出来る存在ですから。

その一方で、ひとたび関係を持ってしまうと、場合によっては、その対象と自分との区別がつかなくなる(その対象に成りきってしまう)。

そういうものだと思ったものです。
我無駄無dot 2014.10.21 21:57 | 編集
我無駄無様
漢字「仏」と「私」の喩えは面白いですね。そう言えば、以前、ブログにも載せまたのですが、私も、同じようなことを考えたことがありました。「私」という漢字の「ノギヘン」から、「三つの画」を取り除くというアイデアです。取り除く「三つの画」は、「二画目」と「四画目」と「五画目」です。すると「ニンベン」になります。したがって、全体では「仏」という漢字なります。つまり、「私」から「三画」を取り除くと「仏」になります。言うまでもなく、取り除く「三画」には、「貪・瞋・痴」の「三毒」を重ねています。 
「相対差別」の世界に生きる私たちは、常に外界と何らかの関係性を持つことになります。好むと好まざるとに関わらず、それを無視して生きていくことはできません。その関係性が私たちの「煩悩」と深く関わっていることは言うまでもありません。問題は、その関係性をどう受け止め、実生活の中にどう返していくかということではないでしょうか。
 いつも例に出す、「極楽も地獄も己が身にありて 鬼も仏も心ないけり」ということを心底から会得できたときが、「身心脱落」、「廓然無聖」なのだ思います。
 ただ、先にも述べたように「煩悩」と「菩提」とは表裏一体のものです。この二つをいかに上手に折り合わせていくかということなのでしょうね。それが「中道」ということかも知れませんが、今は「自分を抜きにして…」ということがポイントになるのかなと思っているところです。
 ありがとうございました。

じ・た・る dot 2014.10.22 11:32 | 編集
じ・た・る様
確かに人は、生きていく以上全てのものと関係を断って、無関係になることはできないでしょう。

また、相反することを折り合わせて、そこに「中道」を求めることも大切だと思います。

とはいえ、人は生きていれば、追い詰められて「何をするかわからない」そういう状況にもなったりします。

そう、どこかの元派遣社員のように。

そういう状態から、一気にジャンプして窮地から抜け出して、「雨雲」の上に達するためには、「そんなのカンケーねー」と言って、「無関係」になることも必要だと思うのです。

また時には、「自分とは関係のない自分」になることも、必要だと思います。

というよりも、道元の言う「己を忘れる」というのは、「自分と関係のある自分から自分とは関係のない自分になる」。つまり、「自分自身の身の上に起こることを、全くの他人事として考えてみることも必要である」こういうことだと思います。

そうすることで、「自分にお金がある、お金がない、出来る、出来ない、合格する、合格しない」という相対差別から解放され、物事をありのままに観ることが出来る。

おそらく、「東西迷」のお坊さんも、自分のことを「他人事」として見ることが出来たから、自分自身のふるまいをあたかも「狂言」を見るように「面白かった」ということが出来たのでしょう。

だから、何があっても「大丈夫」そういう心境(安心立命)でいられるのだと思います。

そして、それが、「自分を抜きにして…」ということなのだと思います。

また、「本来同じものである菩提と煩悩をどうするか」、「極楽も地獄も己が身にありて 鬼も仏も心ないけり」というのも、その通りだと思います。

要は、「自分をどう乗りこなすか」なのでしょう。

運転技術が未熟な人間がむやみに公道でスピードを出して、車を乗り回すと、大事故の元にしかなりませんが、亡くなったセナのようなドライバーになると、車(F1)の運転そのものが、芸術クラスになるものですし。

つまり、そこに煩悩があり、菩提があり、地獄があり、極楽があり、鬼があり仏がある。

しかし、セナも最初から芸術クラスの運転が出来たわけではないわけですし。

その辺りに、「人間(私あるいは仏)としての成長」があるのだと思います。
我無駄無dot 2014.10.22 12:18 | 編集
蛇足になりますが、「関係性」そのものが「仏性」なのだと考えれば良いのではないかと思います。

例えば、「犬の仏性」の場合、「全てが全てに関係し合っている」という視点に立てば、「犬に仏性はある(犬のとの間に関係性がある)」となりますが、その一方で、件の犬が質問した僧の飼い犬ではない場合、「犬には仏性がない(その犬はお前とは関係がない)」こうなるでしょう。

また、関係性は空気のようなものだと言えます。
より正確には酸素になりますが。
言うまでもなく、ほとんどの生き物が酸素のない環境では生きられません。

ですが、酸素も過剰になると「毒」になります。
特にいわゆる「活性酸素」は様々な病気の原因になり、「体の中から活性酸素を取り除くことで、たいていの病気が治っていく」とも言われています。

それと同じで、何かに関係を持ってしまいその関係性が、過剰になるとそれ自体が苦しみの原因になってしまう。

例えば、子供がぐれて暴れている場合、一歩間違うと、親がその子を亡きものにする状況にすらなるわけです。実際そういう痛ましい事件は何度も起こっていますから。

では、なぜそうなるかというと、そこには「親子」という「深い関係」があるからです。

これは、酸素が活性酸素になり、活性酸素が重要な臓器の細胞を破壊して、それが原因でがんになってるようなものでしょう。

そして、その親の心にはとてつもなく深い「苦しみ」がある。

そして、自分の子供を亡きものにするという選択をせずに、この苦しみから逃れるためにはどうするのか?

この答えが、「自分とあいつの間には何の関係もない、あいつは無関係だ」こう思うことだと思います。

それを具体的な形にしたのが、「勘当」なのでしょう。

そして、重要なのは先にも書きましたが、人が何かに深い関係性を持ってしまい、それが原因で苦しむようになると、その苦しみ自体が「自分自身」になってしまうということです。

そして、その苦しみの原因となるものとの関係を、たとえ一時的にでも断ってしまえば、苦しむ原因が無くなってしまうので、結果的に自分の体が無くなったような感覚がある。それが身体面から見た、「心身脱落」であると。

釈迦も道元も「悟り」を求めて苦しみながら修業を続けたわけですが、釈迦は「苦行をやめよう」と思うことで、苦しみの原因から無関係になり、その瞬間「苦しみ」が無くなったのに気がついて、それが「悟り」だと悟ったのだと思います。

道元は「居眠りをした僧が叱られるのは自分とは関係がない」こう思うことで、「心身脱落とは自分の体となっていた苦しみが無くなることだ」と体感したのでしょう。

そして、その苦しみを分厚い雲あるいは、深い霧だと思えば、苦しみの原因が無くなることで、雲や霧が文字通り「雲散霧消」してしまい、それが「廓然無聖」なのだと思います。

いずれにしても、こういうことはいくら言葉を重ねても理解することはできず、自分自身で体験するしかないと思います。

なぜなら、これは「言語を絶して心行所滅」なものだからです。

世阿弥はこう言っています。
「以前申しつる、面白きと云い、花と云い、珍しきと云う、この三つは一体異名なり。
これ、妙・花・面白、三つなりと云えども、一色にて、また上・中・下の差別あり。
妙というは言語を絶して、心行所滅なり。
これを妙と見るは花なり。
一点付けるは面白きなり。」と。

そして、自分は先の日曜日にそのような体験をしてしまいました。

その日までは、「どうせまた不合格だろう」という苦しみの中にいましたが、「明日からはもう関係がない」そう思うことで、その苦しみが文字通り「雲散霧消」したわけです。

そして、これらのことに気づくことが出来たことでで、「良い一日だった」と思うことが出来たわけです。

これは、そのまま世阿弥の言う、「一点付けるは面白きなり」なのだと思います。

そして今は、長年「自分自身」となっていたその苦しみもなく、ただひたすら今の時点でやれることに打ち込んで、積み重ねるだけだと思っています。

そして、11月9日は行政書士の試験日です。
我無駄無dot 2014.10.23 11:04 | 編集
我無駄無様
論点がずれてしまうかも知れませんが、次のように考えます。
 私たちは「相対差別」の世界の中に生きることを余儀なくされています。それこそは、諸々の「関係性」を保つことを求められる世界です。しかし、それ故に私たちは、それによってもたらされる“しがらみ”に悩まされ、苦しむことにもなります。
 「悟り(仏性への自覚)」を求めようとする心の動きは、その「関係性」からの離脱を図る動きなのではないでしょうか。
 その意味では、「関係性」を保ちながら、いかに「関係性」を薄めていくか(もっと言えば無視していくか)ということが、禅の課題になるのではと思います。「関係性」とは別の言い方をするなら「因縁果」の原則に随うことでもあると思いますが、白隠禅師が坐禅和讃で詠う「因果一如」こそが、禅的な生き方なのだということなのでしょう。
 まだよく分からないのですが、「不落因果」でもなく、かといって「不昧因果」でもない生き方、この辺りにポイントがあるような気がするのですが…。
 ところで、キリスト教に慣れ親しむ環境にありながら、我無駄無さんが仏教に関心を持たれた理由には興味がありますね。よろしかったら、教えていただけませんか?
ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.10.23 21:13 | 編集
じ・た・る様
電磁石を考えてみます。

電磁石は基本的に釘などの鉄の芯に、エナメル線を巻いてコイルにして、それに電気を流すことで磁石になるわけです。

そして、電気の流れていない状態では、鉄をくっつけることはできませんが、電気を流すと鉄をくっつけるわけです。

因果関係(相対差別)の中を生きるというのは、磁石が鉄をくっつけるようなものでしょう。

そして、その許容量を超えてしまうと苦しみに押しつぶされる。

これが、「因果に落ちる」ということでしょうが、かといって、完全に磁石で無くなること(すべと無関係になること)も否定されるということでしょう。

そのため、「不落因果」と答えた老人は「野狐」にされてしまった。

その一方で「不昧因果」というのは、電磁石のように必要に応じて、磁力を発生させたり無くしたりすることが、因果をくらまさないことだと思います。

普通人は、AかBかどちらか一方が良くて、もう一方は悪いこういう考え方をします。これが「相対差別」ですが、「野狐」にされた老人は「不落因果」と言ってそれを一方的に否定してしまった。

それでは、駄目ですよ。ということでしょうね。

要は、どちらか一方に固定しないこと。
雲は流れ水も流れ人も変わっていく。

また、「関係性」も固定されたものではなく、その時々応じてに変化していく。

花も咲く時があれば、咲かないこともある。
その各々にその時々の「仏性」があると思って、それをそれとして受け入れて、「晴れてよし曇ってもよし富士の山」そういう心境に達して、「随所に応じて」スイッチのオンとオフを切り替えて、あるときはその対象に身も心も捧げつくすくらいに深い関係になり、またあるときは、「そんなのカンケーねーオッパッピー」と言って、見て見ぬふりをする。

それが、「「不落因果」でもなく、かといって「不昧因果」でもない生き方」になると思います。

それと、「因果一如」というのは、「電磁石の芯もまた鉄」である。こういうことでしょう。

つまり、電気の流れていない状態では、電磁石の芯も他の磁石に吸着されるということです。

これもまた、「自他一如」ということでしょうね。

それと、トンネルが貫通すると山の向こうとこちらは、ひとつながりになりますが、そのトンネルを貫通させることが、「悟り」になると思います。

なので、「悟る」ことが重要なのではなく、山の向こうとこっちを往来することの方が、本当の目的である。
それを見失ってはいけないですよ。ということでしょうね。

あと、キリスト教と仏教の違いは、結局富士山をどちらから見るかの違いでしかないでしょう。

それと、自分自身はあまりクリスチャンであるという意識はありません。
たまたま、父型の祖父が高名な牧師であったというだけで、先述のとおり自分は教会に通わず、聖書も読まないので。

昨日、祖父の名前を検索してみたら、Wikiに収録されていて驚きました。つまり、その関係ではそれだけ重要な人だったということです。

それと、自分は仏教関係だけではなく儒教関係のことも学んでいますので。

それは、全て「自己修養」のためということになりますが。

それではまた、折を見てコメントを投稿しようと思いますので、これにて失礼いたします。
ありがとうございました。
我無駄無dot 2014.10.24 10:34 | 編集
蛇足の蛇足になりますが、じ・た・る様はシマウマがなぜ白黒のボーダー柄なのか、ご存知でしょうか?

この理由は、実は生物学の世界における数百年の謎だったそうです。

それが、数年前に解明されたようで、詳細は
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/10/why-do-zebras-have-stripes_n_5089782.html
シマウマは、なぜ縞模様なのか?
で確認できます。

要点をいうと、シマウマの生息範囲には生きている動物を狙って餌食にして、卵を産みつけまた伝染病を媒介する「刺咬性のハエ」存在していて、この「刺咬性のハエ」は白黒の縞模様を見ると逃げてしまう習性があることが分かったそうです。

そこから見え来たものは、シマウマは「刺咬性のハエ」による被害を避けるために、ゼブラ柄になったのではないかということですね。

これは、裏を返すと、白一色の馬や黒一色の馬はそれだけで、「刺咬性のハエ」の餌食になるということです。

人間の思考のさがとして、「白良くて黒は悪い」という風に考えます、逆に「黒は良くて白は悪い」と考える人もいるでしょう。

ですが、アフリカのサバンナに行くと、白も黒もどっちも悪いのですね。

唯一、一定のパターンて白黒が混在している、縞模様だけが、「良い(ハエの餌食にならない)」とされる。

「白良くて黒は悪い」このように考えることを「差別」だと考えれば、野狐にされた老人は、「不落因果」と言ったことで、「差別をするな」と述べたのでしょう。

でずか、「差別」が必要な曲面もあるわけです。例えば男女のトイレが一緒の場合はどうでしょう。

それによって、相当な社会的な混乱が起こることは予想されますね。

なので、「差別」をしないのではなく、シマウマのように白と黒を両立させて、いかに組み合わせていくかを考えることが、重要なのだと思います。

あと、「因果一如」の一例として、「ルビンの壺」や「妻と義母」というだまし絵も検索してみるといいと思います。
我無駄無dot 2014.10.24 11:22 | 編集
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