2014
07.13

「心が動いている」③/③

Category: 未分類
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 いつも言うように、私たちは、自分の好みや都合に合わせて、観たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりしながら、外界の世界を認識していきます。そのために、なかなか、真実の姿(実相)を認識することはできません。
 しかし、そうではあっても、私たちは、諸器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を頼らずして対象を認識することはできません。好むと好まざるとにかかわらず、狭く偏りながら、個々の認識を蓄積していくことになります。それを統合したものが「わたし」という概念です。そして、心はこの「わたし」によって操られることになります。
 すると厄介なことには、「わたし」に操られた心は、その好みや都合に合わせて、再び情報収集を始めます。そのため、「わたし」は、ますます狭く偏ったものになっていきます。そして、真実の姿(実相)は、ますます離れていきます。
 このように、一つのことを「わたし」の都合に合わせて、「嵐」と感じたり「至福の時」と感じたりする優柔不断な働きこそ、心の持つ特質なのだと思います。ころころと変わることから心(こころ)と呼ばれるようになったという説もあると言います。
 「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」
 いつも例に出す沢庵禅師(たくあんぜんじ)の道歌ですが、この歌もこのような心の特質を踏まえた禅師からの警句でしょう。私たちは、常に心の持つ危うさに思いを致す必要があるのだと思います。
 ここで、釈迦の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 
 物事はどうあるか。美しくあるか。醜くあるか。
 争い事の種としてあるか。大切な問題としてあるか。
 物事は自分を苦しめるか。あるいは甘美なものか。
 物事がどうあるか。
 それはひとえに自分の心によっている。
 心がそれを創っている。
(ダンマパダ)

 最後に、先の「非風非幡」の結末について簡単に紹介したいと思います。「無門関」の編者である無門禅師は、「非風非幡」の話の末尾で、「風が動くこともない。幡が動くこともない。心が動くこともない」と述べています。「心が動く」という話を総括して、「心は動かない」と結んでいるわけです。まさに禅問答の禅問答たる所以であるような話ですが、「動くことのない心」とは、一体何のことを言っているのでしょか。私たち凡人には踏み込むことのできない境地なのでしょう。(〆)

ダンマパダ

  原始仏典の一つで、釈迦の語録の形式を取った仏典  

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※クリックすると拡大して見られます。
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