2014
06.03

「沈黙の愛情」②/②

Category: 未分類
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 想像ではありますが、筆者は、生きとし生けるものの「いのち」を総称して、「その人」と呼んでいるのではないかと思うのです。見えない、聞こえない、香りもない、味もない、触れることもできないものではありますが、確かにあるのが「いのち」です。筆者は、それを「その人」と呼び、沈黙の愛情の提供者としたのではないでしょうか。
 「その人」の前では、すべてのものが平等です。一切の区別も差別はありません。いわゆる自他一如です。
 桜の季節はとうに終わりましたが、ハナミズキ、ハナショウブ、アジサイ、ヒマワリ、サルスベリ、キク、サザンカ、ツバキなど、常動する季節とともに咲き誇る花の種類は実に多様です。しかし、それがどのような花であっても、そこに沈黙の愛情をもって花を咲かせる、「その人」の存在を感じ取ることができたなら、何とも頼もしい気持ちが込み上げてきて、心がほっこりとしてくるのではないでしょうか。
 まどみちお氏の詩の中に、「ほめてあげられたらなあ さくらのことばで」というたいへん魅力的な一節がありました。花に言葉があるのか、耳があるのか、感情があるのかなどと言う人があるなら、それは野暮というものでしょう。
 自他一如の世界に入るなら、褒める私たちと、褒められる花の間に垣根はありません。私たちが咲き誇る花々に心を寄せ、「その人」が提供する沈黙の愛情を全身で感じ取っているとき、それが花々を褒めているときではないでしょうか。そして、そのときが「いつも楽しい花見の真っ只中」なのだと思うのです。
 季節毎に咲き誇る花々に触れたとき、沈黙の愛情を提供する、「その人」の存在に想いを致す心のゆとりを持ちたいものだと思うのです。(〆)

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次回は「Bad news is good news」を掲載(7回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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コメント
三重苦のヘレン・ケラーにとっては、おそらく全ての物が、「聞こえない、香りもない、味もない、触れることもできないものではありますが、確かにある」ものだったと思います。

ただ、彼女の場合は、触覚と嗅覚と味覚は使えるので、そういう意味での外界の認識は出来ていたと思いますが。

そして、サリバン先生に指文字を教えられて、水の冷たさと「ウォーター」という単語が、結びついた時、初めて彼女の中に「こころ」が生まれた。

多分、「ウォーター」と叫んだ瞬間が、彼女にとっての「花」だったのでしょう。

そして、その時初めて彼女は自分が文字通りの「沈黙の愛情」に包まれて生きてきた(生かされてきた)ことに気が付いた。と。

翻って、五感が正常に使える我々は、なまじ「こころ(わたくしという認識)」が使える分、本当に大切なものが、見えてもいないし、聞こえてもいないのだと思います。

今回のお話で、こう思いました。
我無駄無dot 2014.06.03 09:34 | 編集
さて、「般若心経」の完結編になります。

今から2カ月くらい前の話になりますが、アマゾンを見ていたら、「 ヒューマンバンドをチューニングすれば全てが思い通りになる(以下バンド~)」という本が、お勧めされていたので購入しました。

以前アマゾンで、安田隆さんの本を購入した事があるので、それで、お勧めされたのでしょう。

詳細は長くなるので端折りますが、この「バンド~」では「物事は量子物理学(力学)の法則で動いており、また、人間の脳はトランジスタと同じ「同調とスイッチ機能と、増幅機能」を持っており、それが、結果(現象)を生み出す」こうなります。

また、「同調(チューニング)」は「量子力学」における「観測」と同じであり、そこから「自在観測者」という発想が生まれました。

また、「思考が現実化」するというのも、前述の「同調とスイッチ機能と、増幅機能」で説明できると。

よって、「量子物理学にもとづくチューニングが出来るようになれば、色んなものが思い通りになる」こうなります。

その一方で、慧能禅師の「偈」を考えると、元々「思考と現実の区別は無い」こうなるでしょう。それが、成長に伴い「わたくし(こころ)」が発生するために、思考と現実が区別される(自他の区別がなされる)。こう考えるのが正しいと思います。

また、「空」に関しても、今般のじ・た・る様との対話を通じて、「言葉では表現できず、五感(五識)では捉えられない物(妙)に、満たされた状態」である。との結論を得ることが出来ました。

これらを、総合して考えると、「何もないと思えるものは、実は「妙」によって満たされており、それに気が付く時人は「足るを知る」ことが出来る。そして、人の悩みや苦しみはほとんど、「何かが足りない、でも何が足りないのかわからない」ということが出来て、それも「足るを知る」ことが出来れば、おのずから解決する」。そういえるでしょう。たとえ、目に見えた変化が何もなくても。

また、人が何かに夢中になったり、熱中したりするとき、言語感覚と時間認識が無くなり自ずから「わたくし」が無くなります。その時、「内臓感覚」が表面化するのでしょう。

ただ、問題が一つあります。それは内臓感覚(あるいはもう一人の自分)には「言葉」か理解できないことです。

理解できるのはおそらく、「足りる」か「足りないか」の感覚だけ。置き換えれば、「満腹」か「空腹」かということですが。

なので、「わたくし」が無くなって、「内臓感覚」が表面化した時「足りない」感覚に支配されていると、「足りない」と思える出来事がどんどん「現象化」していく。結果、人は「不幸」と言える状況になる。

逆に、「足りている」という感覚に満たされていると、「足りている」状態がどんどん「現象化」していく、それが「幸福」なのだと。

つまり、それが「同調(チューニング)」のメカニズムなのだと。

だから、「足るを知る」ことのできた人は、文字通り「いつも楽しい花見の真っ只中」あるいは、「何もなくとも面白い」そういう日々を送ることが出来る。

そういう状況に達した時、人は、スタート即ゴールであることを知り、願望や夢は元々かなっていることに気が付くと。

つまり、「足るを知る」ことこそが「本当の成功なのだ」と。

ただ、ほとんどの人は「足りない」という感覚に強く支配されいるために、それに気づけないだけなのだ。と。

それを説いているのが、「般若心経」なのでしょう。

以上、長々と、空やその他もろもろに対する、自分なりの考察を重ねてきましたが、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

ちなみに、自分は最近まで文字通り「何が足りないのかわからない」そういう状態にいましたが、ここ1週間を通じて、「足るを知る」に達した気がします。

これも、これまでの対話を通じて、「腹の底」で考えが整理された結果でしょう。
ありがとうございました。
我無駄無dot 2014.06.03 16:32 | 編集
我無駄無様
こちらこそ、我無駄無様の豊富な知見や柔軟な発想力に触れることで、今回も大いに学ぶことができ、深く感謝しています。
 「足るを知る」ことこそが「極楽」であり、仏として生きていくことに通じるということ、これが禅の主張の根幹をなすものだと理解しています。その意味では、まさに、仰るとおり、スタートがゴールであり、ゴールがスタートであるということなのでしょうね。「人牛倶亡」に見る「一円相」ですね。
 こう考えると、「隻手の音声」も、私たちはすでにその音を聞いていると言えるのかも知れませんね。
 ありがとうございました。
 これからも本ブログをよろしくお願いします。
じ・た・る dot 2014.06.04 09:32 | 編集
じ・た・る様
「「隻手の音声」も、私たちはすでにその音を聞いている」本当にその通りだと思います。ただ、それに気づかない(気づけない)だけで。

以前も書きましたが、中村天風はカリアッパ師から「音のない音それが天の声」だと教えられました。

物理的に考えると、耳では聞こえない超音波も「天の声(隻手の音)」になるでしょう。

また、普段気付くことのできない、「内臓感覚」も。

なにより、ヘレン・ケラーを考えると、彼女にとっては全ての「音」が「隻手の声」だったと思います。

彼女は、ものごころが付く前に視覚と聴覚を失ったのでそれにもとづく、言語感覚も発達しなかった。

そのため、両親の顔や姿、声すらも知ることはなかったのでしょうね。おそらく一生。

また、人は時計のない時代明るさの変化によって、時間の経過を把握していたので、盲目の彼女は時間感覚もなかったと思います。

だから、彼女にはサリバン先生と出会うまで「こころ(わたくし)」が育たなかった。

そういう意味では、彼女は「岩戸に閉じこもっていたアマテラス」だったのかもしませんが。そして、サリバン先生はアマノウヅメだったと。

とはいえ、人間の五感で捉えることのできるのは、全体のせいぜい5%程度でしょう。

つまり、それ以外の物はすべて「妙」の世界に属しています。

その「妙」に属する存在に対しては、我々もヘレンと同じ状態にいるわけですが。

ただ、我々にはなまじ「わたくし」があるために、五識で認識できるものに執着して、「目に見えないから六等星以降の星は投影しない」、「耳に聞こえないから超音波は記録しない」こういうことをする。

それが、「足りない」という「思ひ」を生み出して、苦悩の原因を作り出すのに気付かずに。

しかし、足るを知った人は、「岩戸」を開いて、「妙」の中からいくらでも必要なものを、「チューニング(観測)」して「現象にしていく」ことが出来ると思います。たとえそれ相応の手間と時間がかかっても。

それを説いているのが、「観音経」かもしれないですね。

また、「成功」ということを考えたとき、目の前に10億円くらいの札束が積み上げられていても、青ざめた顔で、「まだまだ足りない、もっと金を持ってこい」こう怒鳴りつける、どこかのサラ金の会長のような人物は、どこが「成功者」なのかと思いますし。
我無駄無dot 2014.06.05 04:08 | 編集
それと後、「バンド~」にはこう書かれています。
「与え×感謝の二乗=実現」と。

これは、構造的にはアインシュタインの「E=MC二乗」そのものです。

なので、「思考と現実の区別をなくす」ためには、「わたくしを無くす」以外に、「全ての物の価値を肯定して与えを行い、感謝を積み重ねていくこと」が必須のようですね。

また、「望む結果」に対して、「結果が出る前から感謝する」ことも重要のようです。

そうすることが、「チューニング」の条件なのでしょう。

逆に、「不満と足りない感覚」でチューニングを行うと、不満で足りないことが「結果」として出てくる。

それもまた、「結果」には違いないのですが。
我無駄無dot 2014.06.05 04:29 | 編集
こういうことは、自分自身ずっと「何をやっても結果が出てこない」と思い続けていたので、実感として、理解できるのですよ。

それって結局、「不満と足りない感覚」で無意識のうちにチューニングを続けていたから、「不満で足りない結果」が出ていただけなのでしょうね。

あと、自分の場合「向学心」というよりも、「何が足りないのか全く分からないから、やれると思うものは出来るだけやってみよう」こういう感じだったのですが。
我無駄無dot 2014.06.05 12:27 | 編集
我無駄無様
私も、以前、いろいろと彷徨ったものです。思想的にですが・・・。そして、やっとたどり着いたのが仏教(とりわけ禅)の思想でした。
 幼いとき、地獄絵に接するなどして、自然に仏教思想に馴染むような環境にありましたが(お寺の生まれではありませんが)、思春期から青年期にかけては、西洋哲学(特に唯物史観)に興味が芽生え、一時はそれ以外、眼中にないような状況にもありました。それは、不合理で非科学的とも思えた仏教思想への私なりの批判行動でもありました。
 しかし、社会に出てさまざま人々と接したり、また世の中の動きを見たり、聞いたりするうちにその偏りに気づくようになりました。端的に言うなら、「色」の世界だけを問題とする生き方・在り方への限界です。1+1=2ではなく、+αという世界があるということです。いわば「空」の世界です。
 我が家が臨済宗であることから『般若心経』に親しむことが多かったことも理由にあるかも知れません。また、妙心寺派であることから、いわゆる「応灯関」の系譜とも呼ばれる流れに興味を持つようになったからかも知れません。
 今、禅こそは、究極の哲学であるという思いに立ち至っています。大きな目で見れば、仏教への回帰とも言えるので、その意味では、自分の中でアウフヘーベンできたのかと思っているのですが、これは思い上がりというものでしょう(笑)。
 いずれにしても、禅の思想は、唯物論、唯心論をまさにアウフヘーベンしたものであるというのが私の見解です。
 まだまだ勉強不足でたいへん恥ずかしいのですが、ブログとして配信することを通して、自分自身の考えを少しずつでも固めていけたらと思っているところです。
 いつもありがとうございます。
じ・た・る dot 2014.06.07 10:14 | 編集
じ・た・る様
かって、エジソンは学校の先生にこう言って食ってかかったそうです「なんで、1+1は2なんですか? 粘土の塊を二つ足しても、大きな一個の塊になるでしょう、なんでそれで1+1は2なんですか」と。

それで、エジソンは退学になったそうですが。

結局、エジソンもエジソンなりに「空」の世界の存在に気が付いていたのでしょうね。
だか、こういう主張をしている。

そして、その後の世界は彼の存在を抜きにしては、成立しなくなるのですが。

今現在我々が、パソコンを使っていろいろできるもの煎じつめれば、彼が苦心惨澹の末電球を発明したからなので。

その一方で、はたしてそれで良かったのか?とも思います。

E=MC二乗これは、アインシュタインの相対性理論の公式ですが、この公式も現代社会に必須の物となっています。

とくに、相対性理論が無ければ、原子力の利用は成立しなかったわけですし。

ですが、同時にそれが核兵器を生み出して、エジソンの電気と結び付いた時、生み出されたのが原発です。

ここで、思うのですよ。
もし、エジソンとアインシュタインという二人の偉人が、成功することなく挫折したら、結局その後の世界には核兵器も、原発もなく結果的に三年前の大震災の時も、原発事故は最初からおこなかったのではないかとね。

もちろん、その場合は社会で必要とされるエネルギーをどうやって確保するのか、という問題が発生するのは言うまでもないですが。

結局は、「人間万事塞翁が馬」ということなのでしょう。

それと、今の世界は色んな意味で「分水領」に来ているのではないでしょうか?

これまでの世界は、西洋的な価値観で動いてきましたが、それが確実に行き詰まりに来ている。

その壁を超えるために、禅を初めとする、東洋思想が必要とされていると思います。

とはいえ、そういう壁は実は存在せずに、「足りない」という「思ひ」が生み出している幻にしか、すぎないわけですが。

自分はそういう思ひから、自分でできる範囲で東洋思想の勉強をしたり、中途半端ながら和の芸事に片足を突っ込んで、今を生きています。

ただ、これまでと一つ違うことがあります。
それは、お陰さまで、「足るを知る」ことが出来たということです。

表面的には全く何も変わりは有りませんが、足るを知ることが出来たことで、少なくとも、「何が足りないのかわからない、何をしても結果が出ない」という、「苦しみ」から抜け出ることはできたと思います。そして、世阿弥の言う「万能を一心に繋ぐ」ことに一歩近づくことが出来た気がします。
ありがとうございました。
我無駄無dot 2014.06.07 14:04 | 編集
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