2014
05.30

「沈黙の愛情」 ①/②

Category: 未分類

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 臨済禅・黄檗(おうばく)禅の公式サイトに掲載されていた随筆に目が止まりました。はじめに、まどみちお氏の詩「さくら」が紹介され、その後にコメントがありました。
 この詩はもとより、この詩に対して添えられていたコメントに共感するところがありましたので、やや季節外れではありますが、思うところをまとめてみました。
 コメントは、三寳寺(臨済宗妙心寺派)住職である福山宗徳氏によるものでした。抜粋したものを紹介します。



 「さくら」 
 さくらの つぼみが
 ふくらんできた
 と おもっているうちに
 もう まんかいに なっている
 きれいだなあ
 きれいだなあ
 と おもっているうちに
 もう ちりつくしてしまう
 まいねんの ことだけれど
 また おもう
 いちどでも いい
 ほめてあげられたらなあ….と
 さくらの ことばで
 さくらに そのまんかいを…

 この詩に触れると、桜そのものにも「いのち」が宿っているのだと気づかされます。(中略)私たちの周りには、いつも誰かがいてくれます。その人は、じっとこっちに向かって綺麗な花を満開に咲かせてくれています。その沈黙の愛情の中に包まれて、花満開の下で私たちは生かされています。だとしたら、その愛情に目を向けなければならない筈です。その人と心ひとつになって喜びも悲しみも分かち合っていけるなら、この場はいつでも楽しい花見の真っ只中のはずです。(以下略)



 私たちは、春が来て、さくらの花が咲くのは当たり前のことのように考えていますが、思えばたいへん不思議なことです。
 「年ごとにさくや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかを」
という有名な古歌がありますが、言うまでもなく木の中にその答えを見い出すことなどできません。木をいくら細かく刻んだところで、花の姿はありません。桜の花を咲かせる源は、まったく別のところにあります。
 桜の花を綺麗に咲かせてくれるのは、いったい誰なのでしょうか?
 筆者は、それを「その人」と表現しています。そして、花を咲かせるという営みを沈黙の愛情と喩えています。たいへん新鮮で、含蓄に富んだ捉え方だと思います。とりわけ、“沈黙の愛情”という喩え方は、「施して語らず」という仏教の基本精神に沿うものであり、魅力的でもあります。
 では、沈黙の愛情を提供する「その人」とは何でしょうか。前後の文脈から、それを単に人間だけに限定してはならないことは明らかです。
 コメントの中には「桜そのものにも『いのち』が宿っている」という言葉があります。しかし、言うまでもなく、それは桜だけに限ったことではありません。生きとし生けるもののすべてに「いのち」はあります。桜もその中の一つです。
(以下、②/②につづく)

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※クリックすると拡大して見られます。

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コメント
世阿弥は、昨日書いた「妙」の状態を「花」とも呼んでいます。

また、「若年の演者には若いなりの「花」があるがそれもすぐに散ってしまう。だが、老いた演者にも老いたなりの「花」があり、その「花」は容易には散ることはない」とも述べているようです。

仏教的なものだけではなく、儒教からプラネタリウム、ユーミンの歌声、そして「能楽」いろんな角度から考察してきましたが、結局行きつくところは、慧能禅師の「菩提、本(も)と樹無し、明鏡も亦、台に非づ本来無一物 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん」、「菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、どこに塵がつくところがあろう」なのだと思いました。

そして、時間の感覚と言語の感覚が失われるとき、初めてその状態に到ることが出来るのだと。
我無駄無dot 2014.05.30 12:12 | 編集
我無駄無様
  幅広い識見をもとに、「空」についてのさまざまな考察、たいへん参考になりました。
 それぞれによく理解、納得できるのですが、とりわけ安田さんが説いておられるという「内臓感覚」の話が腑に落ちました。思えば、趙州禅師の有名な逸話「喫茶去」も、このことに言及した話かも知れませんね。もちろん独断的な解釈ではあるのですが・・・。
「まあ、お茶でも一服召し上がれ」。
 お茶を飲んだ後に、どんな味がするのでしょうか。そのときお茶の味がすれば、それが素晴らしいことなのではないでしょうか。いえ、それ以上のことはないのではないと思うのです。
 もし、自分の心の中に「一物」があったら、お茶の味はしないかも知れません。あるいは、美味しいと感じないかも知れません。ときには、何を飲んだか分からないようなことすらあるでしょう。
 ただ「無心」にお茶を飲み味わう、そのことが尊いことであり、一番美味しく味わえるときだということです。その意味では、仰るとおり、「内臓感覚(感覚一般も含め)」も「無意識の自分(もうひとりの自分)」つまり、「仏性」と言ってよいと思います。
 「無心(無私)」に、その「こと」にあたる…、そしてその「こと」と一つになる…。そのとき「内臓感覚(感覚一般)」は最高の状態にあり、「極楽」にあるのだと思います。そして、まさに「その身すなわち 仏なり」ということなのではないでしょうか。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.05.30 15:43 | 編集
じ・た・る様
今回のお話の「沈黙の愛情」もまた、「言語を絶して心行所滅」の世界の出来事でしょうね。

茶道における「和敬清寂」もまた、この「妙」の世界を実現することを目的としていると思います。

ちなみに、自分は自宅で可能な範囲で、茶道をしているのですが。と言っても、茶釜などは高価なので電気ポットで代用しています。
まあ、それ以外の道具は一通りネット通販で購入しているのですが。

ただし、茶道教室に通っているわけではなく、自宅でDVDを見ながらお稽古をしているので、かなり怪しいです。

なので、趙州禅師の「喫茶去」も良くわかります。

また、お能の仕舞や謡もできる範囲で行ったりしているのですが、昨日久しぶり仕舞のお稽古をしていたら、ほんの少しですが、言語と時間の感覚が無くなるような気がしました。まあ、気のせいでしょうが。

それで、般若心経の完結編はもう少し考えをまとめてから、改めてコメントしようと思います。

とりあえず、テーマ的には「「足るを知ること」が本当の成功である」こうなりますが。
我無駄無dot 2014.05.30 17:43 | 編集
じ・た・る様
六祖慧能禅師はどうやら、文字を読むことが出来ても書くことが出来なかったようですね、そのため寺にいた童子に偈を代筆してもらったとか。

現代を生きる我々は、字が書けないあるいは、文盲だとそれだけで馬鹿にしがちですが、「文字を知り言語認識をもって時間に対する認識を持つことで、「心(自我意識)」が生まれそこから「苦しみの連鎖」が生まれる」ことを理解すると、慧能禅師は字が書けなかった分、他の修行僧に比べると、「仏」に近かったのだと思います。

だから、「本来無一物」の境地にいることが出来たのでしょう。

それと、安田さんによると世阿弥はいわゆる「こころ」を三つの階層に分けて考えていたそうです。

まず、一番上層に自我意識としての「こころ」がありこれは、状況によってころころ変わる。このころころが転じて「こころ」になった。と。

その内側に、変わることのない「思ひ」があり、能はその「思ひ」訴えかける芸能だそうです。

例えば、在原業平が都から東国に来て隅田川のほとりで妻を思って涙する、また人攫いにさらわれた子供を追って東国に来た母親が、同じ隅田川のほとりでわが子を思って涙するのも、「思ひ」においては変わりない。と。

そして、そのさらに中心に「心(しん)」がある。
この「心」は「芯」でありもまた「神(しん)」でもあると。
また、この「心」が「内臓感覚(あわいの力)」になるのでしょう。

そして、その「心(しん)」が「妙」であり、「花」でもあると。
その、「花」に達して錨をおろし「万能を一心につなぐ」ことが次の時代を生きるために、必要だと安田さんは述べています。
我無駄無dot 2014.05.30 18:40 | 編集
上のコメントで、「妙」と「花」との関係性に混乱があったので、訂正します。

「言語を絶して心行所滅」のものである「妙」と「花」とは同じものではなく、「妙」から「花」が生まれる。

こう考えるのが正しかったようです。

世阿弥は、アマテラスが岩戸に閉じこもって、世界が暗黒に閉ざされた状態を「言語を絶して心行所滅」と呼び、アマテラスが外の楽しげな様子に興味を持って、岩戸をほんの少しだけ開けてみた結果、光がほとばしった。その瞬間を「一点つくる」と書いています。

そして、その時「神々の面が白く照らされた(面白くなった)」で、その瞬間が「花」なのだというわけです。

これを十牛図で言うと、「妙」の状態は「人牛倶忘」であり、「一点つくる」から「花」が咲いた状態は「返本還元」になるわけで、だから、返本還元には「花」が咲いていると。
我無駄無dot 2014.06.01 12:33 | 編集
我無駄無様
「「妙」と「花」とは同じものではなく、「妙」から「花」が生まれる」
 確かにこの方が理解しやすいかも知れないですね。「花」は「妙」の一つではありますが、「妙」そのものではない、「妙」は「花」として現成しますが、「花」そのものではない。さしずめ「妙」が「空」、「花」が「色」というところでしょうか。
また、世阿弥の説いた「こころ」を三つの階層に分けるという話もたいへん興味深く受け止めました。恐れ多いのですが、私も、心について、これとよく似た思索を試みたことがありました。「心」こそが仏心ですね。
 「妙心」という言葉もありますね。言うまでもなく、「涅槃妙心」という釈迦の言葉が語源です。妙心寺の名の由来でもありますね。
 「妙」と言えば、「みょうのじは、わかきおんなのみだれがみ ゆうにゆわれず とくにとかれず」などという面白い歌もあるようですね。余談ですが・・・。
 それにしても、お能の謡もされているとのこと、その向学心には敬服するばかりです。もっとも、私も、最近、抹茶を点てて飲むようにしています。作法は知りません。また、それ学ぼうという思いもありません。アルコールがダメなので、小さな贅沢のつもりで、気軽に飲んでいます。
 そんな日常から、趙州禅師の逸話「喫茶去」を題材にして、ブログ文を作成中です。配信の折にはぜひご一読いただき、感想などいただけると幸いです。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.06.02 14:17 | 編集
じ・た・る様
自分も、茶道をやっているとは言っても、教室に通っているわけではないので、作法としてはいい加減です。

でも、それでいいのではないでしょうか?

もちろん、きちんとした作法を身につけるべきだと思いますが、だからと言ってそれに雁字搦めにされると、かえって「和敬清寂」から程遠くなってしまう。

そう思いますので。
ただ、いずれ機会があったら、正規の茶道教室に通って、正式な作法も身につけたいとも思いますが。
ありがとうございました。
我無駄無dot 2014.06.03 09:44 | 編集
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