2014
11.10

「子どもはみんな タッタカ走る」③/③

Category: 未分類
歩く 

 慧能(えのう)禅師が残した言葉に「“禅”とは心の異名なり」という有名な言葉があります。難解な言葉ではありますが、簡単に言えば、“禅”というのは、心の一部であるということです。つまり、心から、私心を排除した残りの心が“禅”(絶対的主体性)であるということです。そして、この“禅”に満たされた様子を「無心」とするのです。
 『禅』では「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」に“禅”(無心の状態)があるとされます。「行」は、歩くこと、「住」は、止まること、「坐」は座ること、「臥」は、横になる(寝る)ことです。『禅』の教えによれは、日常生活の中に、ごく当たり前に「無心」になれる状態があるということです。
 その通りではないでしょうか。歩く、止まる、坐る、寝るなどの行為も、そこに至る段階までは、自分の意思や意図、都合などが働きますが、一旦、その「こと」と一つになってしまえば、ほとんどの場合、それらは消えているはずです。歩いているとき、「歩こう」などとは思っていないはずですし、止まっている(じっとしている)ときや坐っているとき、寝ているときも、「止まろう」「坐ろう」「寝よう」などとの想いはないはずです。そんなときには、身体の働き(あるいは自然)に任せているのだと思うのです。だれに指示や命令、強制をされたというわけではありません。当然、私心が入り込む余地もありません。
 また、勝手な想像ではありますが、働くという行為についても、熟練の職人が仕事に臨んでいるときなどは、私心から離れ、自然に身体が動いているのではないでしょうか。
  このような観点から一日の生活を振り返ったとき、「無心」で動いていることは案外多いことに気づかされます。無職の身であることもあるかと思いますが、私の場合、一日の8~9割は、そんな時間を過ごしているように思います。
 ただ、その場合、「おんまは みんな」の歌のように「おもしろいね」といかないところに難点があるのかも知れません。しかし、『禅』が教えてくれるのは、そのときこそが、人間として最も理にかなった、自然な在り方であり、その意味では、最も幸せなときだということです。
 初老期に入った私には、子どもたちのようにタッタカと走ることはできませんが、それでも、まだタッタカと生きていける場面は多く残っていると考えているのですが…。   (〆)

kodomo 3 
※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「どっこしょ!」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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